禹範坤(ウ・ポムゴン)は、1982年4月26日から翌日の27日にかけて、韓国南部の慶尚南道宜寧郡宮柳面において、わずか一晩で、民間人57人(56人、61人など諸説ある)を殺害し、35人に重軽傷を負わせるという事件を起こした。禹は犯行当時27歳で韓国の警察官だった。この禹による57人殺しは、2011年に「ノルウェー連続テロ事件」が起きるまで、短時間における大量殺人記録としてギネスブックのワールド・レコーズに公式認定されていた世界でも稀に見る殺人事件であった。

禹範坤は1955年、釜山市に生まれ、彼の父親も警察官であった。禹には、4人の兄弟がおり、彼は3番目の子どもとして誕生している。幼少の頃は「将来は、お父さんのような立派な警察官になりたい」と抱負を語っていたようだ。しかし、禹は勉学に勤しんだが、父親の病気のため一家は困窮をきわめた。中学校・高校と進学すると、成績は振るわず、周囲から「落ちこぼれ」と認識されるようになった。そして、高校3年生の時には手首を切って自殺を図るほど精神的に病むようになっていた。

1974年に父親が亡くなると、一家は生活のため家を手放し、禹自身も1976年、大学を中退し海兵隊に入隊した。2年後に除隊し、警察官採用試験を受けるも不合格となったことから、彼は酒に溺れ、些細なことで喧嘩をする日々を続けたといわれている。それでも、1978年には警察官採用試験に合格し、念願の警察官になることができた。そして、ソウル市内の警察署などで勤務した後、先輩の推薦もあり、晴れて青瓦台(大統領府)にて大統領警護任務に就くまで出世を果たした。

ところが、この頃の禹は酒にすっかり依存してしまっており、飲酒して酔って勤務していることが発覚してしまった。そうしたことから、彼は大統領警護というエリート任務から外されて、慶尚南道宜寧郡という田舎町の交番勤務に左遷されてしまった。その転籍を命じられた現地で、彼はある女性と恋に落ち、同棲を始めた。しかしながら、左遷されたことによって給料が下がったことで、結婚資金を用意することができず、その彼女から毎日、蔑まれ罵られるというかなり鬱屈した日々を送っていたようだ。

そして1982年4月26日、禹は夜間当直勤務に備えて自宅で昼飯を食べた後、酒を飲み酔ったまま仮眠をしていた。そこに1匹の蠅が飛んで来て寝ていた彼の体の上にとまった。この蠅を見た彼女が寝ていた禹の体ごと平手打ちして潰した。当然、寝ていた禹は蠅のことは知らず、自分が意味もなく叩かれたと思い込んで逆上し、彼女と大喧嘩となった。その後、宜寧警察署宮柳支署(現在の宮柳治安センター)へ出向くと、武器庫に入り込んでウイスキーを多量に飲み泥酔状態となった。

それから禹は勤務先の警察署に向かったが、途中で勤務を放棄し、午後7時30分頃、自宅に帰ってきた。泥酔状態の彼は怒りに任せて、拳で彼女の顔面を激しく殴打した。止めに入った彼女の親族も顔面から激しい流血するほどの暴行を受けた。それでも治まらない禹は家中の家具を破壊し、出ていってしまった。その後、禹は兄弟と合流し、一緒に再び酒を飲み始めるが、この酒が彼の正気を奪った。午9時30分頃、武器庫からM2カービン2丁と実弾180発、手榴弾7発を持ち出した。

10分後の9時40分、大邸市のトゴクリ(地名)で表具師の男性を狙撃した。これが禹範坤による大量殺人の始まりの合図だった。次は買い物客で賑わう市場に行き、3名を射殺した。午後9時50分、禹は村と警察の通信を遮断する目的でグンリュ郵便局に向かった。局員は秘かに村長宅と警察との電話回線を接続したが、その直後に女性局員2名は射殺された。他にも配達員1名が射殺されている。午後10時頃、住宅街に侵入して6名を射殺しているが、犯行時間は10分ほどだった。 

さらに午後10時10分には別の市場に行き、ここでも7名を射殺しているが、この頃から禹は大量殺人を目的にし始めた節がある。それは手口に表れており、効率良く住民を射殺できるよう最初に手榴弾を炸裂させた後、騒ぎで駆け付けた買い物客や市場関係者らに向けてカービン銃で一斉掃射をかけているのだ。午後10時34分、ようやく住民から警察に「大量殺人が行われている」との緊急通報が入った。最初の襲撃から54分後の事で、その間に実に20名の尊い命が奪われてしまった。

午後10時50分頃、大量殺人を実行して疲労を感じたのか禹は飲食店に入り、酒を飲み始めている。その際、他の客や店主に「外で銃撃が行われている」と大声で告げ、騒ぎを起こしている。騒然となった店内で、禹は再びカービン銃を乱射し、居合わせた客ら12名を殺害している。その店を出た後、禹は次々と民家に押し入り、23名を殺戮した。武装警官隊が現場に到着したのは第一報から1時間以上も経過した午後11時50分頃だった。その後も禹は犠牲者を求めて、彷徨い続けていた。
 

翌朝、武装警察隊によって発見され、追い詰められた禹は民家に乱入した。そこで彼は、まだ寝ていた住人を叩き起こし、カービン銃で脅して3名を人質とした。この人質を連れて近くの山に逃げ込んだが、最期は武装警察隊に周囲をぐるりと囲まれ、禹は万策尽きたことを悟ったことだろう。警官は人質解放と投降を呼びかけるもこれを容れず、最後は警官の必死の制止も無視して午前5時35分頃、3名の人質を道連れにして禹は手榴弾の安全ピンを抜くと、2発を炸裂させ壮絶な爆死を遂げた。

 

現職の警察官による大量殺人だったということに加え、この事件を指揮するはずであった宜寧警察署長が事件発生時に遊興で、連絡が取れなかったことから初動が遅れ、被害を拡大させたと署長の職務怠慢に非難が集中した。当時の劉彰順内閣の責任ばかりではなく、クーデターで政権を掌握したばかりの全斗煥大統領への非難にまで及ぶ恐れもあった。このため徐廷和内務部長官が事件直後に引責辞任し、幕引きを謀った。後任には、後に大統領にまで登りつめた盧泰愚が就任している。

禹範坤が死亡したため本当の犯行動機は分からない。しかし、伝えられる禹の胸に止まった蝿を女性が叩いたことが原因とするなら、真に信じ難い。それは、ほんの痴話喧嘩のレベルの話に過ぎないことであり、57人は死ななければならなかった理由に値しない。常人は殺人などできないのだが、敢えてそれを理解しようとする時、犯人を大量殺人へと駆り立てた怨念や歪んだ使命感といった劇的な動機というものを求める。しかし、この事件は泥酔した男の純粋な暴力への衝動だったのではないか?