「スカフィズム」や「ファラリスの雄牛」など、古来より人は残酷な方法で罪人を処刑してきた。現代なら倒錯した嗜好の持ち主以外、人間が拷問死するところなど見たいというものはいないだろう。しかし、公開処刑が為政者による大衆への見せしめであると同時に、楽しみの少なかった昔は大衆の一種の娯楽という側面もあった。そのためただ処刑するというよりも、いかに苦しませるのかを追求したものがあった。

 

そのなかもでも私が最も残酷でイカれた死刑法だと確信しているのが、中国で唐が滅亡した後、10世紀の騒乱の五代十国時代から始まり、清時代の1905年に廃止されるまでの永きに渡り行われていた「凌遅刑」である。また、中国の強い影響下に置かれた李氏朝鮮でも行われていた。この残酷きわまりない凌遅刑を科されたのは国家転覆を企てた者や尊属殺人者、猟奇殺人者など重罪人と見なされた人々である。

 

凌遅刑の凌遅とは、「凌」に「丘を登るように凍っていく」という意味があり、「遅」と合わせ意味を強調する重ね詞になっている。つまり、「緩慢に事を成す」という意味であり、この場合の事は死刑であるから、「ゆっくり死に至らしめる刑」ということになる。ここまでで十分おぞましいが、具体的には一気に絶命しないよう人間の全身の肉を少しづつ切り落とし、なるべく長い間、苦痛を与え続けること目的とした。

 

例えば15世紀の明代の宦官であった劉瑾は正徳初年に皇帝の寵愛を受けて朝政を専断したが、後に皇位簒奪を計画したため凌遅刑処されている。劉瑾は最初の日に親指の爪くらいの大きさの肉357か所を切り取られ、翌日も切り刻まれても、なかなか死にきれず叫び続け、3357刀目の3日目にやっと絶命している。当然ながら、生身の人間は数十刀で気を失うが、一喝して正気に戻して、また切り刻むのだ。

 

正式な凌遅刑では、専用の小刀が使用され、それぞれの小刀の柄に身体の部位の印が刻まれていた。これらの小刀は籠に入れられていて執行人に差し出された。執行人は特にそれを選ばず一本の小刀を籠から取り出す。そして、柄の印を見て、それが足なら足から肉をそぎ落とした。この専用の小刀が揃えられない場合は身体の部位を書き記した紙を用意し、執行人が一枚引き、当たった場所の肉をそぎ落としていた。    

 

凌遅刑は前述の通り「時間をかけて死に至らしめる刑」であるから、時として3日目にも及ぶ。当然のことながら刑の執行者は刑の執行期間食事をする。今の日本人が執行人なら食事など喉を通らないだろう。しかし、驚くべきは受刑者も食事をすることを許され、実際食べたらしい。凌遅刑が長く苦痛を与えることを目的にしていることから衰弱を防止する意味で合理的かもしれないが、私には信じられない神経だ。

 

 

中国では人肉が妙薬と考えられおり、凌遅刑で受刑者から削られた肉片は被害者家族に配られたり、漢方として売られていた。凌遅刑は1905年に廃止されと前述したが、それは法制化されていたという意味であり、歴史学者は1966年からの中国で行われた「文化大革命」でも多くの中国人が私的な凌遅刑に処され「非常に大規模な食人が民衆の間で行われていた可能性が高い」との研究結果を発表している。