イタリアのジャンルカ・キオディーニは世界の果てを訪れ、原住民の写真を撮影する写真家である。今回、キオディーニは豪州側に位置するニューギニアのジャングルの奥深くを訪ね、アスマット族の男女や子どもたちの写真を撮影した。この原住民は生贄の儀式で知られており、米国第41代副大統領のネルソン・ロックフェラーの5番目の息子マイケルを60年前に殺害し、食人した部族だ。

民族学者のマイケル・ロックフェラーは当時23歳で、この時代の米国で最も裕福な家庭の御曹司であった。彼はハーバード大学で民族学を専攻、その過程でニューギニア・イリアンジャヤの部族に興味を持ち、特にダニ族と当時、首狩りの風習が残っていたアスマット族の研究を行い、彼らの木彫りの美しい工芸品を収集するなどしていたが、1961年11月、ニューギニアで行方不明になった。


ニューギニアはアマゾンとは違い、天然資源が恵まれておらず、欧米諸国はこの地に特に興味を持っていなかった。しかし、1800年に東インド会社から島々を引き継いだオランダ人は、これら地域を植民地支配することに関心を示し始めていた。ニューギニアに送り込まれたオランダ政府から調査を命じられた冷酷非情なリーダーであったマックス・ラプレはアスマット族の5人を撃ち殺した。

 

このラプレの残酷な虐殺はアスマット族の人々を心底打ちのめし、白人に対する烈火のような憎悪を植え付けることになった。アスマット族は「部族のひとりを死に追いやった者は相手の死をもって贖うべき」と信じている。それゆえに、もしアスマット族のひとりが殺された場合、彼らは精神的なバランスを保つために、相手に必ず復讐をしなければならない。それはアスマット族の掟であった。

一方、マイケルは1961年、ニューヨークで展示する品を探し、ニューギニアを探索していた。ジャーナリストのカール・ホフマンは、そこでマイケルに起きたことを知っているという。マイケルは旅行中、南西部の海岸沿いに船を進めていたが、11月17日、船が転覆した。マイケルは転覆地点から16キロを泳ぎ、岸に着いた。しかし、そこは白人の生贄を探すアスマット族の住む地域だった。

 

 

彼はアスマット族の男の一人に槍を突き刺され、首の後ろに斧を振り下ろされ、マイケルは絶命した。そして、アスマット族は儀式を行った。アスマットの首狩り儀式の作法よれば、彼らは最初に敵の頭を外し、それから首から背中に切り込みを入れ、背中側から内臓は除去される。複数の呪術師が呪文を唱えている間、生贄の足と腕は火にくべられる。焦げた身体の部分は全員が味わえるよう配られる。

 

生贄の血はアスマット族の身体に塗られる。頭が完全に調理されると、彼らは頭皮を剥ぎ取り、脳を取りだして食べる。食べられなかった部分も、全て取っておかれて、武器、もしくは宗教的な象徴として使用される。「もしアスマット族が、マイケルを殺したとしたなら、彼らはきっとマイケルをこう扱っただろう」と、1か月もの間、通訳を介さずにアスマット族と共同生活をしたホフマンは話している。

 

 

アスマット族は何世紀にもわたって、首狩りをしてきたが、同時に頭蓋骨を崇拝していた。頭蓋骨の脳を取り除き、目と鼻の部分は悪霊が体に出入りするのを防ぐために閉じる。頭蓋骨は枕にしたり、骨を椀にして使用してきた。部族内には性による壁はなく、一夫多妻制でありながら妻を共有し、男は男ともセックスをした。彼らは、お互いの尿を飲み合い、絆を結ぶ儀式では人間の血を身体中に塗る。

 

彼らは、人を殺して食べると、その人物が持っていた力を自分のものにして、その人の魂が自身に宿ると信じている。アスマット族の誰もが亡くなった人の名前を受け継いでいるか、または自分たちが殺した人物にちなんだ名が付けているという。彼らにとってマイケルを殺すことは、オランダ人に殺された彼らの部族メンバーの“不在”を補う、彼らなりの方法だと思われるとホフマンは説明している。

 

さらに、マイケルがアスマット族に食べられたと信じられる理由がある。彼は転覆した船から逃れた際、ふたつのガソリンタンクを身体に結び付けていた。もし、彼が溺死しても捜索隊によって、少なくともタンクは発見されるはずだった。また、アスマット族の住む地域の海域には、サメが生息していない。マイケルが失踪すると、ロックフェラー家はニューギニアに飛び、大規模な捜索を行った。

 

ジョン・F・ケネディ大統領も哀悼の意を表し、家族に支援をした。しかし、マイケルを発見することはできず、彼の行方は今も不明のままだ。世界で最も裕福な相続人が失踪した理由は公式的に何も認定されてはいない。しかし、彼は首狩り族によって、食べられたと多くの専門家は考えている。アスマット族の首狩りの慣習はインドネシア政府の指導により、1990年代に絶えたといわれている。