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「島守の神」として沖縄の人々から敬慕される戦前最後の沖縄県知事であった島田叡(あきら)。沖縄では有名でも、本土ではあまり知られていない。「島田は沖縄戦直前の1945年昭和20)1月に43歳で沖縄に赴任し、文官にもかかわらず、県民と運命を共した。島田の県知事としての任期は僅か5か月足らずであったが、その生き様は沖縄県民に鮮烈な記憶を残して、散っていった。

その島田が沖縄県知事になった経緯は当時の情勢から沖縄が戦場になることは必至と見られていたため、前任者の泉守紀が職務を放棄した。そこで、急遽後任を決めることになったが、誰もが「死にたくない」ということで成り手がいなかった。それで、以前から親交があった海軍陸戦部隊の大田実少将や牛島満沖縄軍司令官から当時大阪府の内政部長をしていた島田が沖縄県知事に推薦された。

周囲の者はみな止めたが、島田は「誰かが、どうしても行かならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかん。俺が行かないなら、誰かが行かなければならない。自分は死にたくないから、他の誰かが行って死ねとは言えない」と1945年(昭和20)1月10日、知事を引き受ける決断をする。家族に「断」の字を残し、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ。

沖縄県知事として赴任した島田は目覚ましい働きをする。そのひとつが県民の疎開だった。1月31日、島田は赴任するとすぐ、前任者の泉が関係を悪化させていた沖縄駐留の第32軍との関係改善に努めた。そして前任者の反対で県民の本土や台湾への疎開は遅々として進まず、もはや本格的な県外脱出は手遅れだったため、県北部への疎開を開始した。犠牲をひとりでも少なくするためだった。

これにより、沖縄本土にいた約49万人のうち、22万人の人々を僅か2か月で県北部や一部熊本に疎開させることに成功した。結果的には、この年の3月26日から始まった沖縄戦では約10万人の県民が亡くなったが、もし島田の努力がなければ、犠牲者は計り知れず、この疎開によって、一説には20万人が命を救われたと言われる。実に60万沖縄県民の3人に1人にあたる。

また海上封鎖されれば、県民の食糧難の危機が想定されるとして、島田は着任直後の2月下旬に米軍に制空権を奪われ、敵の潜水艦や偵察機が頻繁に行き交うなかを自ら台湾に渡って総督府に頭を下げて交渉し、蓬莱米3000石分の確保に成功した。翌3月には、蓬莱米が那覇に搬入された。こうした島田の真摯な姿勢により県民は島田に対し、深い信頼の念を抱くようになった。

同年3月に入り空襲が始まると、県庁を首里に移転し、地下壕の中で執務を始めた。以後、沖縄戦戦局の推移に伴い、島田は壕を移転させながら指揮を執った。軍部とは密接な連携を保ちながらも、およそ横柄なところのない人物で、女子職員が井戸や川から水を汲み洗顔を勧めると「命がけの水汲みの苦労を思えば、おろそかに使えないよ」と、少しの水を使わなかったという。

陸軍守備隊の首里撤退に際して、島田は「南部には多くの住民が避難しており、住民が巻き添えになる」と猛烈に反対示した。同年5月末の軍団長会議に同席した島田は、撤退の方針を知らされ、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、住民を道連れにするのは愚策である」と憤慨した。しかし、このとき牛島司令官は、「第32軍の使命は本土作戦を有利に導くことにある」と説いた。

1945年(昭和20)6月9日、島田に同行した県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、県及び警察組織の解散を指示。「知事と生死をともにしたい」と付き添ってきた2人の属官にも「脱出」を命じた。この時、親しかった新聞社の支局長が訪ねてきて「知事さんは軍人ではないのだから、沖縄県民と最期を共にしなくてもよいのではないか」と進言している。

しかし、島田は「知事として私は生きて帰れると思うかね。県民がどれだけ死んだか知っているだろう。私ほど県民の力になれなかった知事はいない」と述べている。そして、その言葉の通り、島田は沖縄に残り6月26日、自決して県民と最期を共にした。島田の遺骨捜索は現在もなお、ボランティア団体「島守の会」や、母校の兵庫高等学校OBなどの手で行われているが、今日に至るまでは発見されていない。

1945年(昭和20年)7月9日、島田の殉職の報に際して、安倍源基内務大臣は島田に行政史上初の内務大臣賞詞と顕功賞を贈り、「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」と称えた。内務大臣が一知事に対し賞詞を授与することは、前例がなかった。島田叡知事の生き方は指導者や公僕のあるべき姿の手本であろう。最後に沖縄戦約10万人の犠牲の大半の責任は泉守紀にある。