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1945年昭和20)日本が敗戦を迎えた後、ベトナムのサイゴンの街では植民地支配をしていたフランスの自警団とベトミン(ベトナム独立同盟)の小競り合いが続いた。80年もの間、ベトナムはフランスの植民地支配を受けていた。植民地にされる時も植民地になってからも抗戦したが、一度も勝つことができなかった。ところが、そのフランス軍を日本軍は明号作戦で一夜にして駆逐したのだ。
 
これを見たベトミンは日本軍の戦闘能力高さに目をつけた。ベトミンはベトナム全土で、敗戦後も残留している日本兵の勧誘活動を行なった。妙齢のベトナム女性が毎晩のように日本軍将兵収容所に現れて勧誘した。サイゴンの街には、好条件で日本兵の参加を求めるベトミンのビラが張り出された。こうして、ベトミンに参加した日本兵は700人から800人といわれる。
 
ベトナム独立戦争中の1946年(昭和21)に設立されたクァンガイ陸軍中学などいくつかの軍事学校で旧日本陸軍将校・下士官による軍事教育が行われた。彼らにしてみると、大東亜戦争の続きだった。ベトナム人を見殺しにして、おめおめと帰国できるかという思いだったという。こうしたことからフランス軍は日本軍人がベトミン戦力の要であるとして、その捕殺ないし、投降工作を熱心に行なった。
 
1946年(昭和21)6月1日、クァンガイにグエン・ソン将軍を校長とし、第5戦区上級軍事幹部ドアン・クエ(後のベトナム国防相)を事務長とする陸軍中学が設立され、残留した日本軍人は教官・助教官と医務官として教壇に立ちベトナム兵を指導した。彼らは現地の人々からベトナム語で「ングォイ・ベトナム・モイ」、和訳すると「新ベトム人」と呼ばれ、慕われた。
 
日本軍式の軍事訓練は厳しさを極めたが、ベトナム人生徒らは、よく従って日本人教官を畏敬した。彼らは好んでの日本人教官の真似をした。シャツのボタンを留めずにおくというような少々崩れた服装まで真似て、「ニャット・コン」(日本人の弟子)スタイルを生徒らは自らの誇りとした。現地の住民らも日本人教官らに親しみを込めて「オン・ニャット」(日本さん)と呼びかけた。
 
1946年(昭和21)11月20日、ハイフォン港での密輸船取締りに端を発する銃撃事件をきっかけにベトナムでは独立運動各派が一斉に蜂起した。日本兵は戦闘指揮、作戦立案に大きな役割を果たす。前線の直接戦闘だけでなく、武器・弾薬製造、橋梁架設、沈船引き揚げなどの後方支援でも工兵、砲兵が活躍した。各種の勲章および徽章を授与された日本人は30名を上回っている。
 
1953年(昭和28)11月、ディエンビエンフーの戦いにベトナム軍が勝利し、第一次インドシナ戦争はベトナムが勝利を収めた。勝利したベトナム軍の将校らは「我々は100年にわたる殖民地支配によって、戦の仕方がわからなくなっていた。日本人教官から基礎の基礎から徹底的に叩き込まれたことを感謝している。私たちは一生、日本人教官のご恩を忘れることはできません」と感謝の言葉を述べている。
 
しかし、米国はサイゴンに親米政権を擁立、ベトナムは北緯17度で南北に分断され、やがて南側で反米闘争が始まり、ベトナムは第2次インドシナ戦争(ベトナム戦争)の炎に再び覆われた。しかし、日本人教官が施した軍事訓練により、ベトナム人は世界でも有数の勇敢な兵士になっていた。圧倒的な装備を誇る米軍を前にしてもベトナム兵はゲリラ戦を仕掛け米軍を震えあがらせた。