イメージ 1

 

1953年(昭和28年)5月9日、石油を満載した出光興産が所有する日章丸は神奈川県の川崎港で、集まった多くの日本人や報道陣が発する歓喜の声に迎えられていた。そして、これより20日ほど前、この日章丸はイランのアバダン港で多くのイラン人に熱烈な歓迎を受けていた。またイラン各紙も「日本の日章丸の来港はイラン経済に希望の光を与えるもの」として賞賛していた。世にいう「日章丸事件」である。

1940年代までイランでは、イギリスがイラン国王家を傀儡化して牛耳り、石油利権の84%をイギリスの石油会社アングロ・イラニアン(後のBP)に搾取され、イランは自国の油田あるにも関わらず、16%しか受け取ることができなかった。そのためイランは豊富な石油資源を有しているのに、極端な貧困に喘ぎ国民の不満が充満していた。

1951年4月、新首相に就任したモハメド・モサデクは、5月1日より石油産業を国有化する法案を成立させ、アングロ・イラニアンの石油施設はイラン政府が設立したイラン国営石油会社(NIOC)に接収された。これに対し、イギリス政府はイラン産石油はアングロ・イラニアンに所有権があり、石油をイラン政府から購入した場合、掠奪と見なして訴訟すると国際社会に警告を発し、イラン向け物資の禁輸措置を発動した。

イギリスはペルシャ湾に海軍を派遣してホムルズ海峡を封鎖、イランから石油を輸送しようとするタンカーは撃沈も辞さずと宣言した。イランは国際的に孤立、経済封鎖により追いつめられ窮地に陥った。このためイランのモサデク首相は国際石油カルテルの支配をかいくぐって石油を購入する者を必死に探すことになった。

そんな折、当時の出光興産の専務だった出光計助にブジリストン社長石橋正二郎から電話が入る。モルテザ・コスロプシャヒというイラン人商社マンから国際石油カルテルの息のかかっていない民族系の出光興産にイラン石油を購入の打診して欲しいといわれているてのことだった。

国際石油カルテルの強固な包囲網が敷かれるなか、出光興産の出光佐三社長はイラン石油の購入を決断、イラン政府とハードな交渉を重ね1953年(昭和28)、契約書に調印した。1953年3月23日、出光は新しく建造した就航した虎の子の日章丸二世をイラン石油輸送のため神戸港から出港させた。表向きの行き先はサウジアラビアだった。

撃沈の危険性を抱えた日章丸はイギリス海軍の厳重なホルムズ海峡封鎖網をかいくぐりイランのアバダン港に到達、ガソリンや軽油約2万2千キロリットルを満載の後、帰国。途中イギリス海軍を振り切り川崎港に無事帰還した。これは敗戦にも挫けず日本人としての誇りを持ち続けた出光佐三という経営者が成し遂げた快挙だった。

1952年(昭和27)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を果たしたばかりだった。戦勝国であり、当時は今と比較にならない大国であったイギリスと対峙することを怖れた日本政府は表だって出光興産を支援できない状況だった。それでも出光興産がイラン石油を直接購入したことは国際石油カルテル体制に打撃を与え、世界の石油市場に大きな一石を投じた。

この「日章丸事件」は国際社会に日本がGHQから独立した姿を示すもので、敗戦で打ちひしがれた日本人の心を鼓舞し、勇気と誇りを取り戻させた出来事だった。この事件を詳しくお知りになりたい方は百田尚樹著「海賊と呼ばれた男」をお薦めする。