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アナスタシアはロシア最後の王朝ロマノフ朝の第4皇女で、四姉妹の中で最も158cmと小柄だったが、明るく活発、ひょうきんな性格で、彼女の前ではどんなに気難しい人も笑顔になったという。家族からは「道化者」というあだ名で呼ばれていた。金髪の波状毛と青灰色の大きな瞳をした愛くるしい皇女だったと伝えられる。映画「アナスタシア」の主人公のモデルになっている。

 
彼女の最後は、ロシア革命が成立すると、1918年、監禁されていたエカテリンブルクのイパチェフ館において、レーニンから一家全員処刑の命令を受けたチェーカー次席のヤコフ・ユロフスキー率いる処刑隊に、両親・姉弟と4人の従者と共に銃殺されたというのが通説だ。しかし、このとき処刑されたのはニコライ2世とアレクセイ皇太子のみで、妻と娘達は後に別の場所で殺されたという説や生存していたという説もある。
 
1920年にドイツのベルリンで、記憶喪失の自殺未遂者として精神病院にアンダーソンと名乗る女性が収容された。すると、誰からともなくアンダーソンは、ロマノフ朝の皇女アナスタシアではないか、という噂がたった。やがて、アンダーソンは記憶を取り戻すと「自分はロシアから処刑を逃れ脱走してきたアナスタシアである」と主張し始めた。

彼女の話によると、処刑のとき、姉の後ろに隠れ命拾いをした。その後、処刑隊の一兵士に助け出されルーマニアに逃れ、その途中にその兵士の子供を産んだが、彼はブカレストの市街戦に巻き込まれて死亡した。子供は孤児院に預けたという。
 
アナスタシアを名乗るアンダーソンには、耳の形や足の異常形態などアナスタシア本人と酷似する身体的特徴があった。さらに、皇室に関わった者しか知り得なかった子細な事柄についての知識があったことから、生き残った皇族やロマノフ家に連なるロシア貴族の間に多くの支持者を得た。

彼女をアナスタシアだと認める肯定派には、皇帝の従弟アンドレイ大公、同じくロイヒテンベルク公、ドイツ皇帝の義理の妹ツェツィル皇太子妃、侍医ポトキンらがいた。反対に彼女を偽物だとする否定派には皇后の兄ヘッセン大公、皇帝の妹オリガ太后女、皇女の家庭教師ジョリヤールが名を連ねた。とりわけアナスタシア本人をとりわけよく知る祖母マリア・フョードロヴナ皇太后はアンダーソンに決して会おうとはしなかった。

 
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アナスタシアを名乗る偽者は、1920~30年代に少なくとも30人が確認されているが、これほどの支持を集めたのは、アンダーソン1人だけである。