雑居ビルの階段を昇ると半開きになった”煌”のドアが見えた。節子に続いてミチも入った。中は薄暗く人っ子ひとりいない。
「マスター。セツとミチきたよー!」
節子が怒鳴った。しばらくして柄シャツを着た肉厚のマスターが奥からモタモタと出てきた。真ん中で分けて垂らした髪、四角い顎、獅子舞のようなご面相の50絡みの男であった。日本名、宮田淳一。彼の息子、正行はふた月ほど前に少年院に送られたが、節子の元彼でミチとも親しい間柄であった。だから、彼女たちは自然と”煌”に出入りするようになったのだ。
マスターは写真の好きな男で額縁のような大きな写真がそこいら中の壁にかけてある。海原を行く漁船団の荒々しい勇壮な写真やたくさんの動物や群衆、美しい花畑、断崖絶壁。それぞれが見るものに必ずといっていいほど哀愁を感じさせるものである。その他にも、大小合わせて数多くの写真がいたるところを飾っている。その中には自分で撮影した作品も何点かあるそうだ。
こうした具合だから床一面に肉を焼くテーブルが並んでいなかったとしたら、先鋭的な写真家の個展会場かと勘違いいそうでもある。それぐらい店内は薄暗くて独特な雰囲気がした。
「よくきたね、おふたりさん。元気だった?」マスターは丈夫そうな歯並びを見せて愛想よく笑っている。
「マスター、ビール持ってきて早く!」節子がせっつく。ふたりは身近なテーブルに腰かけた。
鉄板は汚れていて肉の返し器が数本散らばっている。節子はマスターが厨房に消えるとその一本を「ヤッ」と投げた。それはクルクル回って飛び、写真と写真の間の壁に三角の尖った刃が見事に突き刺さった。
マスターがビール瓶を持ってきた。
「きょう、誰か来た?マスター」それを節子が引ったくった。
「いいや、誰も来ないよ」マスターは答えた。節子はドクドクと置いてあったコップにビールをついでいる。
「ウチら、誰か来たら出ていくから」彼女はいった。コップを溢れてビールは鉄板に広がっている。
「好きにするといい。ビールはおごりだ」
「おっとガッテンだ。マスター大好き」
節子が煽ったからミチも続いた。頭にキンとくるほどよく冷えていた。
「アンタラは息子の友だちだ。それくらいはするよ。もし用があるようだったら呼んでくれ」
マスターは不気味な笑いを残して奥へ去った。
しばらくして、節子が改まった調子でいった。「わたし、好きな男ができたんだ」
ミチは何気にコクリと首を動かした。始めからそんな予感がしていた。コレまで何度も何度も同じ場面にぶち当たっている。思えばその周期は短くて2,3日だったこともある。
「好きな男ができた」「わたし恋してる」「もう離れられない」「コクッてもいいかしら」
こうしたたぐいの言葉が彼女の真剣な口から間断なく発せられ、ミチは繰り返し繰り返し聞かされた。ということは、節子がたとえ一定の短い期間であっても、定まった男を確保できないという証明でもある。
ミチは軽蔑に同情を交えた複雑な表情で節子を見ていた。どうひいき目に見ても彼女には狙った男を捕獲する能力があるようには思えない。
美しくない。かわゆくない。頭がない。体がない。品がない。金がない。ないないづくしでどうしようもない。それでも女だから男を求める。キッパリと撥ねつけられればよいが、使える生殖器を持っているから一回二回は相手をする男も出てくる。有り金をふんだくるため甘い言葉を囁く男も現われる始末である。
続く
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