らるこの相方です。

 
肺機能低下による酸素吸引が始まってから亡くなるまでの記録です。
 
3月8日ー18日
二人で話し合った後、らるこは医師に自分の思いを伝えました。
 
1.治療に関する見解が医師間で異なり、どの治療を行うのが良いのかよくわからない
2.治療を急ぐことは現状では体力的に難しいと感じている
 
正直に思いを伝えたことで、らるこもかなりポジティブに考えられるようになったと言っていました。再びガンマナイフを受けて治療を進める気持ちを取り戻し、21日には退院したいと話すようになっていました。
 
亡くなった後に見つけた、らるこが残していた3/9のメモには、退院までの見込み、ガンマナイフの予定、費用などが具体的に書かれていました。
 
しかし、この頃から食事は少しずつ細っていき、あまり食べることができなくなっていました。らるこは病院食はパサパサするとよく言っていました。栄養士の方がいろいろとメニューを変えてくれていましたが、らるこには合わないことが多かっため、少しでも本人が食べられそうなものを差し入れることが多くなっていました。
 
10日の日には、珍しく鰻を食べたいと言うので、付き添い食でうな重を注文して二人で食べましたが、その後は、そんなことを口にすることもなくなりました。
 
13、14日ごろは自分の仕事も非常に忙しく、らるこに会いに行くことも難しかったですが、らるこから来る連絡は芳しくありませんでした。薬が合わないと話し、肺は胸水が溜まるので抜いて少し楽になる状態でしたが、水が溜まるスピードも早かったため、この頃からSNSでの連絡も途切れ途切れの状態になっていきました。携帯を見るのすら、体調的に辛い状態だったと思います。

仕事のピークが過ぎたあとは近くのホテルに泊まり、らるこが不安にならないようなるべく長い時間一緒にいることぐらいしか自分にできることはありませんでした。

 
3月19日ー3月20日
仕事で同席できませんでしたが、らるこ本人とらるこのお姉さんに対して説明があり、これ以上の積極的な治療は難しいと医師から告げられました。余命という言い方はされませんでしたが、事実上の余命宣告でした。
 
その後は、緩和ケアをメインにすることになったため、緩和ケアの看護士さん達がサポートしてくれることになりました。らるこの治療で鎮痛用の薬をシリンジポンプで入れるようになったのも、この少し前から始まっていました。
 
3月21日
この日は朝から雪が降っていました。そんな中、病院に移動する途中に、自分の祖母が亡くなったという連絡がありました。

今年100歳で病院で寝たきりの状態だったので、あまり長くないことは、わかっていたことではありましたが…
 
らるこは、蕎麦が食べたいと言っていたので、病院には蕎麦を持って行きました。起き上がることもすでに難しくなっていましたが、この日病室に入ると、らるこは不思議と椅子に座ることができていました。食事をするだけで、呼吸が上がってしまう状態だったので、持って行った蕎麦もほとんど食べることはできず少し口にしただけでしたが、久しぶりに一緒に座って食事をすることができました。

らるこは、この日あまり多くを語りませんでしたが、もう家に戻ることはできないと思っている、これ以上迷惑はかけられない、私のことを思ってくれているのは有難いが、あなたにはあなたの人生があるから、私のことを忘れてほしくはないが、あなたの人生を歩んでいってほしいということを言っていました。

らるこの酸素吸入量は、これまで1L程度でしたが、この日1.5Lまで上がっていました。

3月22日
翌日実家に戻り、祖母の通夜・葬儀に出席する必要があったため、仕事の追い込みで病院に行くことはできませんでした。夜、SNSで連絡を取りましたが、それがらることの最後のSNSでのやりとりになりました。
 
3月23日
朝、実家に戻る途中、病院から電話がかかってきた。緩和ケアの看護師の方からだった。本人が会いたいと言っているので、すぐに病院に来てもらえないかという連絡だった。
 
何かあったのか?と確認したところ、夜中に容態が急変し酸素濃度が急激に低下(一時は56まで下がり危険な状態になった)したとのことだった。現在は安定しているとのことだったが、看護師の方の焦った感じの話し方からして非常に厳しい状況であることは明白だった。
 
3月24日
祖母の葬儀を済ませ、そのままとんぼ返りで新幹線に乗り病院に駆けつけた。病院についたとき、すでに彼女の意識は混濁しており朦朧としている状態だった。少しだけ話ができる状態に戻ることはあり、急遽連絡した親しい友人が来てくれたときは普通に話ができていたし、夕食でほんの一口だけだがスープを飲むことができていた。しかし、夕方には、看護師の方からもうあまり時間がないので、亡くなった後に着せる服を準備しておいてくださいと説明があった。
 
酸素の吸引量は4Lまで上がり、酸素の噴出される音が病室で聞こえるようになっていた。

時間がなくなってきているのはわかっていたが、加速度的に調子が悪くなっていくのを、ただ見守ることしかできなかった。
 
3月25日
らるこのお姉さんと自分はそのまま病院に泊まり込んでいた。夜中2時過ぎに、らるこが苦しそうにしていたのでナースコール。痰が詰まっていたようで吸引を行ってもらう。吸引をしている間にも、酸素濃度がドンドン低下する状況だったため、酸素マスクをつけ酸素流入量を増やすことになった。
 
酸素吸引量は10Lまで上がり、ボコボコと加湿用の水の音が響き、酸素の噴出される音が病室中に鳴り響いていた。
 
早朝、手が冷たくなってきていたので布団をかけてあげた。呼吸はとても苦しそうだった。酸素マスクをしていても酸素濃度が下がってしまうため、酸素吸引量は、機材の限界値の13Lまで上がっていた。
 
朝8時過ぎ、らるこのお母さん達の到着を待ちながら、お姉さんと病室で立ち話をしていたら、看護師の方が慌てて病室に入ってきて、時計を見ながら脈を測り始めた。一瞬何が行ったのか理解できなかった。らるこの顔に目をやると、さきほどまでの荒い呼吸が止まっていた。酸素濃度を計測する機械を見ると、先ほどまで出ていた数値が表示されていなかった。
 
看護師の方から先生を呼ぶため、しばらくお待ちくださいと告げられ、何が起こったのか、やっと理解できた。
 


少しして先生が駆けつけ、最後の診断が行われた。
そして、午前8時33分、らるこの死亡が確認された。


 
お疲れ様、長い間よく頑張ったよ…
 


らるこの死後、古くからの友人、大学、大学院の先輩、学友、会社や同好会の方々など、本当に多くの人からお悔やみの言葉をいただいたり、声をかけていただいた。らるこが進めていたプロジェクトの方や同僚の方からも思いを繋いでいくとよと声をかけていただいたり。らるこがやろうとしたことは道半ばだったかもしれないが、彼女が作ってきた関係は確かなものだったし、彼女の思いはいろいろなかたちで受け継がれていったと思う。


二人に一人がガンになると言われる世の中で、ガンという病気は決して遠い存在ではありません。らるこが伝えてきたことで、ステージ4でもいろいろな生き方ができるということを感じていただけたら、らるこの発信してきた内容が少しでも皆様のお役に立てていたなら、らるこもとても喜ぶと思います。
 
ご愛読ありがとうございました。
 

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