からし種と空の鳥

からし種と空の鳥

日本キリスト教団 
西宮聖光教会の牧師が書いているブログです。
兵庫県西宮市にある小さな教会です。

どうぞ、休憩していってください。小さな教会の小さな牧師が綴っているブログです。聖書のみ言葉から、夢と希望をお届けしたいと願っています☕💕
先日、兵庫県の但馬地方の教会をお訪ねしました。
 

 

普通の民家が、教会堂になっています。

 

但馬の竹野伝道所 外観
 
過疎化している町、教会員も減り、今は実質お一人で教会を守っておられます。
 
但馬の古民家と散歩する人々
 
87歳になられたという、Tさん。教会のお友だち(故人)が詠んだ歌を見せてくださいました。
 
但馬の教会の掛け軸(詩)
 
達筆の草書で読めなかったので、訳してくださいました。
 
 
「笑みに似し口元なれど悲しきまでも深きまなざし我をみつむる」
 
「夫もなく子もなく一人生きる世に主の愛こそはわが力なり」
 
 
この歌を詠んだお友だちのお名前も教えてくださいました。藤田まつさんという方の歌です。
 
但馬でどのような暮らしをしておられたのかわかりませんが、イエスさまの愛に力づけられ、支えられて生きてこられたのだなあと、なんだか胸がいっぱいになりました。
 
 
夫もなく子もなく一人生きる世に……主の愛こそはわが力なり!
 
 
但馬の穏やかな海と山並み
 
「恐れることはない、行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい。」(マタイによる福音書28:10)
 
 
死んでよみがえられたイエスさまが、女性たちに告げられたお言葉です。
 
ガリラヤは、イスラエルの国の北の方の町の名前です。
 
「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった。」(同4:16)
 
町の人口が減り、産業もない地方で生きていくのは大変ですが、イエスさまの光によって生きてこられた方のことを伺って、とても励まされました。
 
レンテンローズ:淡い緑の花、庭の小さな灯火
 

 

庭のレンテンローズ、たった一輪だけですが、今日も元気に咲いていますハートうさぎのぬいぐるみラブラブ
 

毎週水曜日は、日曜日の主日礼拝のメッセージをお届けしています。


現在、礼拝では「十戒」を読んでいます。

 

今回は、第七戒の「盗んではならない」という教えを思い巡らしました。

 

 

2025年度の年間テーマ

お言葉どおりこの身になりますように

~われ弱くとも恐れはあらじ~」

 

年間聖句

「恐れるな…神には、何でもできないことはありません。」(ルカによる福音書1章30.37節)

 

 

3月22日 の礼拝メッセージ

受難節第5主日

「『盗んでいない』と言えない私たち—第八戒-」

聖書 出エジプト記20章15節
「 あなたは、盗んで はならない。」

 

 1.「盗む」とは何か 

 

「盗んだらいけない」ということは、誰もが知っています。


けれども聖書が語る「盗む」は、私たちが思っているよりも、ずっと広い意味を持っています。

 

聖書で「盗む」と訳される言葉(ガーナブ)は、単に物を取ることだけではありません。


この言葉は、人を盗む、つまり誘拐するという意味でも使われ、また、人の心を盗む、すなわち信頼を奪うという意味でも用いられています。

 

このように「盗む」とは、本来その人に属するものを奪うこと全体を指しています。

 

それは、お金や物だけでなく、時間や労力、そして人との信頼や思いといった、目に見えないものにも及びます。

 

さらに聖書は、すべてのものの本当の持ち主は神であると語ります。

 

「地とそこに満ちるもの、世界とその中に住むものは、主のものである。」(詩編24:1)

 

そう考えると、私たちが所有しているものも、自分の力で得たように思っていても、神さまから託されたものを預かっているにすぎないのだと気づかされます。

 

命も、時間も、自分のうちにある良い物も、すべては神さまから与えられたものです。

 

私たちも、知らず知らずのうちに「盗んでいる」ということがないか、考えてみたいと思います。

 

 

 2.盗んでいることに気づかない 

 

「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要であることをご存じである。」(マタイ6:32)

 

これは、生きていくために日々悩み、労苦している人々に、イエスさまが語られたお言葉です。

 

神さまは私たちに命を与え、何が必要かをご存じで、その必要を満たしてくださるお方です。

 

けれども私たちは、必要が満たされてもなお、さらに豊かな生活を求め、少しでも長く生きたいと願いながら、必死に生きています。

 

もし足りないものがあるなら、分け合えばよいはずです。


しかし、自分だけ満たされ、他の人が困っていても気づかないふりをしてしまう――それが、古今東西変わらない人間の姿ではないでしょうか。

 

自分が手にしたものだから、自分の思いのままに用いてよい――私たちはどこかでそう考えてしまいます。

 

けれども、神さまから与えられたものを自分中心に用いるとき、そこに、見えない形で「盗み」が起こっているのです。

 

 

 3.神のものを盗む世界 

 

旧約聖書最後の書である、マラキの預言の言葉です。

 

「人は神のものを盗むことができようか。しかしあなたがたは、わたしのものを盗んでいる。」(マラキ3:9)

 

「神のものを盗んでいる」という言葉は、「神を欺いている」とも訳されます。

 

このあとに、十分の一のささげものについて語られ、「わたしを試してみよ」と、神が恵みを注がれるかどうかを確かめるようにと招かれています。

 

しかしこれは、単に献金を勧めているのではなく、神さまとの関係の回復への呼びかけです。

 

神さまが求めておられるのは、ささげものそのものではなく、神に信頼する心です。


たとえ多くをささげても、神さまへの信頼と感謝のないものを、神さまは喜ばれません。

 

また、神さまがお与えくださったものを、自分のものとして無駄に用いることも、喜ばれることではありません。

 

私たちは、自分が手にしたものはすべて自分のものだと思い、自分の思いのままに用いてよいと考えてしまいます。

 

競争の中で生きる私たちは、本来分け合うべきものを独占したり、神さまにお返しすべきものを自分のものとしてしまっていることがあります。

 

それが、神さまの目には「盗み」と映るのです。

 

そして、そのような小さな積み重ねが、人の欲を膨らませ、やがては搾取や独占、さらには戦争のように、他の人の命を奪う現実へと広がっていきます。

 

 

 4.分かち合う私たちに

 

「盗んでいた者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。」(エペソ4:28)

 

エペソの教会には、かつて「盗む」という生き方の中にあった人々もいました。
それは当時の社会の現実でもあり、また現代の私たちの社会とも無関係ではありません。

 

日本においても経済格差は広がり、貧しさの中で生きる人々の現実があります。


生きるために追い詰められて起こる「盗み」は、単なる個人の問題として片づけることのできない重さを持っています。

 

また、国の経済が不安になると、また、より豊かに強くなろうとすると、他の国のものを奪おうとする現実も起こります。

 

しかし聖書は、そこで終わりません。神は私たちを、盗む者から、分かち合う者へと招いておられます。

 

私たちが、神さまから与えられたものを感謝して受け取り、それを分かち合いながら生きるとき、
必要なものはすでに与えられていることに、少しずつ気づかされていくのではないでしょうか。

 

富の公平な分配は人類の大きな課題です。

 

けれども私たちはまず、すべてを与えてくださる神さまに立ち返り、与えられている恵みを分かち合って生きる者とされたいと願います。

 

 

【黙想・祈り】 

父なる神さま。あなたは私たちに、必要なものを与えてくださるお方です。

 

どうかあなたに信頼し、与えられているものを感謝して受け取り、隣人と分かち合って生きる者としてください。

 

「乏しい者はひとりもなかった」(使徒4:34)と記されている、あの初めの教会の姿を、私たちのうちにもお与えください。

 

あなたの霊によって、私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございました。

 

「盗まない」ということは、あたり前のことだと思っていました。

 

でも、自販機にお釣りのコインが残っていたとき、交番に届けるのも面倒で、つい持ち帰ってしまったことがあります。


けれども、それを使うのもどこか心苦しく、献金にすることもできずにいました。

 

人のものを自分のものにする「盗みの心」が、自分の中にもあるのだと気づかされました。

 

これは、コンビニの「募金箱」に入れた記憶がありますが、これは偽善者以下だなあと思いました。

もう、二度としたくないです。

 

すべてが神さまから与えられていると気づくとき、
私たちは握りしめるのではなく、分かち合うことへと導かれていくのだと思います。

 

与えられている恵みを心に覚えて、
「盗む者」ではなく、「分かち合う者」として生きていきたいと思いますハートうさぎのぬいぐるみラブラブ

 

 

 
教会の「分かち合い」の食卓を―「愛餐(あいさん)」と呼んでいます。
 
愛餐会の炊き込みご飯と味噌汁
 
お昼の「愛餐会」。手間とお金はかけられませんが、足りなければ半分こ。分かち合っていただきます よだれ
 
先日、但馬に行った時の朝食。Y牧師が心をこめてコーヒーを淹れてくださいました。
 
ドリップコーヒーで丁寧な朝食
 
 
御本人のお気に入りの有機栽培コーヒー豆、豆の焙煎からご自分でなさいます コーヒー
心温まる朝食でした ハート うさぎのぬいぐるみ ラブラブ
 
コーヒーとクロワッサン、ヨーグルトの朝食
 

 

 

コーヒーnotoにも簡易版のメッセージを載せています

 


昨日から一泊で、兵庫県北部の但馬地方にある教会を訪ねました。

 

日本基督教団兵庫教区には、この地域に8つの教会・伝道所がありますが、その半分には専任の牧師がおられません。

 

教区の、ある委員会のメンバーでの訪問です。

 

 
但馬地方の教会、雪残る山道も守られた礼拝
 

北部にある6つの教会は、2人の牧師が兼任しておられます。

 
但馬の教会の礼拝堂内部
 

教会と教会の間は、山道を車で1時間以上かかります。

 

山の斜面にはまだ雪が残っていて、太平洋側の阪神地区とは季節の進みも違います。

 

 
但馬の雪残る山道と乾いた草
 

そのような中でも、教会と礼拝は守られていました。

兵庫の教会、雪残る山道、日本海
 
 

牧師がおられなくても、礼拝堂は信徒の方々の手によってきれいに保たれていました。

 

 

但馬の教会 礼拝堂の様子
 

たくさんの祈りが、この場所で積み重ねられてきました。

梅の花と日本海の風景
 
お世話になっている引退牧師のI先生がいらした教会ですが、今は、牧師がおられません。
 
但馬の教会の内部、木製ベンチと十字架
 
 
かつては、この礼拝堂にもたくさんの人が集まっていたのでしょう。

 

但馬の教会の礼拝堂(チャペル)看板

 

 

すぐそばには、美しい日本海が見えます。

 

けれども高齢化が進み、町の人口は減り続けています。
 

但馬の海と島、遠景の木


それでも、ここには変わらず教会があります。

希望を持って生きる力を与えられる場所が、今こそ必要なのだと思いました。
 
但馬の教会から見える日本海の海岸線

 

教会が、そのような場所であり続けられたらいいなあと思いました。

 

但馬の教会への道、雪山と日本海、教会が希望の灯火
 

 

最後は、城崎温泉街にあるK教会を訪ねました。

 

温泉で体を休めるように、教会でも魂の休息を得て帰っていただけたら…と思いましたハートうさぎのぬいぐるみラブラブ

 

 

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。

 

…そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(マタイによる福音書11:28.29)

 

 
但馬の教会とヤシの木
 
厳しい状況の中にあっても、愛と希望を与えられる小さな灯火がともし続けられています。
 
 

夜は、こちらの教会で泊まらせていただきました。

 

但馬の木造伝道所
 
 
実際に、足を運んでみなければわからない現実があります。
 
その地の痛みを分かち合い、そして夜中までゆっくり語らいの時を過ごして帰ってきました。
 
他の皆さんと、一緒に体験ができてよかったです。
 
 

 

猫あたま昨年秋に、別の旅で但馬の教会を訪ねました。カトリック教会も同じ現状だそうです。

 

 

植物の育て方も知らないのに、狭い庭に花などを植えています。
 
植える場所は、空いたプランターの隅っことか…
 
土とか、他の植物との相性とか、ぜんぜん気にしてあげていませんでした。
 
せっかく「エデンの農園」って名づけているのに…
農園管理は、これでは失格ですね 悲しい
 
でも、今朝、去年植えたチューリップにつぼみを見つけたんです♪
 
チューリップのつぼみ、困難な場所で咲く
 
 
去年は、チューリップを5つ植えました。
 
どれも、他の植物が植わっていたところの居候でした。
 
チューリップは、1年限りのお花だと思っていました。
だから芽がツンツンと出てきたときはほんとにビックリ!
 
チューリップのつぼみ、困難な場所で成長
 
そして、健気にもつぼみをつけたんです!
 
この子は、ネギの隣りで芽を出した子です。
 
チューリップのつぼみ、窮屈な場所でも健気
 
水道栓の影のところで、ムスカリの花が一つ咲いていました。
 
ムスカリの花と緑の葉
 
この白いお花(スノードロップ?)のお姉さんたちに囲まれて、奥の方でひっそりと咲いていました。
 
スノードロップの花、困難な場所で咲く
 
渡辺和子さんが「置かれた場所で咲きなさい」という有名な言葉を残されましたが、そもそも理不尽な?場所に植えられてしまうこともあります。
 
そこでは生き延びられないこともあります。
 
遅ればせながら調べてみたら、球根は「掘り上げ」といって、一度掘り出して保存し、また植えなおすのだそうです。
 
 
5つ植えたチューリップのうち、二つがそうでした。
一つはイチジクのそばに植えたのですが…そのイチジクも枯れてしまいました ショボーン
 
 
困難な環境でも生き延びてくれたチューリップ、元気に花を咲かせてほしいです。
 
 
「すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり…」
(伝道の書3:2)
 
 
そして、一度死なれて復活されたイエスさま。私たちの希望です。
 
どんなところに植えられようとも、復活の希望をもって生きたいと思いました ハート うさぎのぬいぐるみ ルンルン
 
 
 

わたしたちの教会の週報に掲載しているコラム「からし種」です。

 

イエス・キリストが知らせてくださった「からし種のような小さな神の国」を、日々の生活の中で見つけた驚きと喜びを綴っています。

 

 

教会の設備をメンテナンスしてくださる業者の方が、仕事を終 えられて外の看板を見ながら、「今の時代はキリスト教も大変ですね。 誤解もされるでしょう」と言われた。
 
クリスチャンの方ではなさそうだ。 しかし、キリスト者が戦争に加担していることがマイナスイメージを生み、 「宗教」がらみの事件もあることから、教会は大変なのだろうと思われた ようだ。
 
彼は少なくとも反対者ではなく、そのような同情はありがたい。
 
 「そうなんですよ。誤解されることもありますし」と言ってお見送りした が、好意をもって教会を受け止めてもらえていることはうれしかった。 
 
宗教は本来、人の心の支えとなるものだと思う。それを疑うとしたら、 お金や力が人生の支えになるのだろうか。
 
けれども、お金や力があって も、命も平和も買うことはできない――そんなことを、ふと思った。
 

 

 

 
業者の方の何気ないひとことの中に、今の時代の空気が表れているように感じました。
 
誤解や偏見の中でも、なお教会をあたたかく受け止めてくださる方がいることは、ありがたいことです。
 
人は何を支えに生きているのだろう――ふとそんなことを思いました。
 
「日曜日、お時間があったらいらしてくださいね」とお見送りしましたが、来てくださるといいなあ。
 
 
夕焼け空を飛ぶ鳥と教会の風景
 
 
「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。
 
わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16:33)
 
 
これは、イエスさまのお言葉です。
 
不安な時代だからこそ、お金や力では支えきれないものに頼れる幸せを思いました ハート うさぎのぬいぐるみ  ラブラブ
 
教会の十字架と青空、鳥
 
 
 

教会が、どなたでも安心してお越しいただける場所でありたいと願っていますニコニコルンルン

 

 

西宮聖光教会の集会案内看板

 

教会ってどんなとこ?と
興味をお持ちの方は
ご自由にお越しください。
けっして、こわいところでも、
あやしい?ところでも

ありませんほっこり

 

場所や連絡先はホームページの

「アクセス」をご覧ください。

 

 

ちょうちょnoto にも同じ記事を載せていますカエル

 

スマホと鍵がなくなることが、ときたまあります。
 
でも、ときたまでも、とっても困るんです。
 
スマホを、ついその辺に置いて…
 
イザ、使おうと思った時に、どこを探してもないんです。
ほんとうに困ります。
 
それで、常に身につけていられるように、ストラップを買いました。
 
ドット柄ストラップとカラビナ
 
 
でも、始終首にかけていたら、じゃまです。
 
外せるストラップなので、短くして持ち歩いていました。
それで…やっぱり、その辺に置いてしまうのです。
 
スマホストラップのドット柄と留め具
 
 
先日は、庭に置いてありました……
 
なんでこんなところに 驚き
 
 
スマホが勝手に出て行くことはありません。
 
庭で写真を撮って、ゴミを出す時にその辺に置いて、そのままにしていたのでした。
 
 
スマホはひとりで帰ってくることはできません。
 
主人が迎えに行ってあげないと…ひと晩外で過ごして、どんなに心細かったことでしょう。
 
 
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。
 
その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、
 
いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。」(ルカによる福音書15:4)
 

 

イエスさまは、このたとえで、迷い出た一匹を探しに行かれる方だと教えてくださいました。

 

自分の意思によってではなくても、帰る場所に帰ることができなくなってしまうこともあるのだと、思いました。

 

迷子になっている方を、イエスさまが探しに来てくださいますようにハートうさぎのぬいぐるみラブラブ

 

 

 

日本基督教団西宮聖光教会の集会案内

 
 

明日は主の日、礼拝の日です。

イエスさまに見い出されて神の家に帰ることができました音符

喜びの礼拝を捧げます。

 

 

ちょうちょ3月22日(日)の礼拝

午前11時~12時

午後4時~5時

 

受難節第5主日

聖書:出エジプト記20章15節

メッセージ:「『盗んでいません』とは言えない私たち―第八戒―」

 

 

 
 

 

 
今日は春分の日です。昼と夜が、ちょうど仲良く半分こ。
 
 
太陽も真東から昇りました。
 
春分の日 武庫川の夕陽と街並み
 
 
こちらは、武庫川の夕陽。太陽は真西に沈みました。(数日前ですが)
 
武庫川の夕陽と木々
 
 

私たちは、太陽が昇ったり沈んだりしていると思うけど、私たちが昇ったり沈んだりしているんですよね。

 

いつも、自分中心に考えてしまう「罪」は、なかなか消えません。

 
武庫川の夕陽と橋

 

この詩が、心に浮かびました。

 

「主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。

 

武庫川の夕陽と菜の花

 

主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。

 

 
赤いポピーと菜の花の風景


主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。 

 
武庫川の夕陽と菜の花

 

天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、

 

東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。」(詩篇103:8~12)

 
 
昨日は、讃美歌を歌う会でした。
 
受難節(レント)なので、イエスさまが背負ってくださった十字架を思いつつ歌いました。
 
讃美歌142番「栄えの主イエスの十字架をあおげば」
 
A子さんに歌詞を朗読していただき、歌詞を味わって歌いました。
 
 
 
栄えの主イエスの 十字架をあおげば
世の富 ほまれは 塵にぞ等しき
 
見よ 主のみかしら み手み足よりぞ
恵みと悲しみ こもごも流るる
 
十字架と青空
 
恵みと悲しみ ひとつに融け合い
茨はまばゆき 冠と輝く
 
ああ主の恵みに 報ゆるすべなし
ただ身と魂(たま)とを 
ささげてぬかずく。


「自己中心」という、罪や過ちを犯さない人はいません。聖人君主と言われる人であっても…
 
その罪をイエスさまの十字架によって取り除いていただいた――ありがたいなあと思う朝でした ハート ニコニコ キラキラ

 

一昨日は、暖かな良いお天気でした。
 
「公園のアーモンドの花が咲いている」と聞いて、体操の集まりのあと、公園まで足を延ばしました。
 
公園のアーモンドの花と青空
 
どなたかが、看板をつけてくださっています。地域の皆さんに愛されている公園です。
 
公園のアーモンドの看板
 
桜に似ていますが、桜よりも大きなお花です。
 
公園のアーモンドの花
 
アーモンドの花言葉は、「希望」「真心の愛」など。
 
「希望」は、春に葉に先駆けて花を咲かせ、豊かな実りをもたらすことから、「豊かさ」の象徴だそうです。
 
「主の言葉がわたしに臨んだ。『エレミヤよ、何が見えるか。』
 
わたしは答えた。『アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。』

主はわたしに言われた。『あなたの見るとおりだ。
 
わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。」
(エレミヤ1:11.12)
 
 
言葉遊びのようにも聞こえますが、
枯れたように見える木の枝から、春一番に花を咲かせるアーモンドの花は、神さまの正義と愛と平和が実現する時がことを思わせてくれます。
 
そして、「真心の愛」という花言葉は、
「イエス・キリストの復活と結びつけられ、神の愛をイメージしている」のだそうです。
 
ヴェロニカ(オオキヌノフグリ)の花
 
教会に戻ると、庭のヴェロニカ(オオイヌノフグリ)が今年やっと咲いていました。ずっと待っていました。
 
Hさんがお好きだったです。
 
ヴェロニカは、十字架を負われたイエスさまが苦しみのあまり倒れられた時、そっと白い布を渡したといわれる女性の名前です。
 
ヴェロニカの花言葉は、「信頼」「忠実」「清らか」「慎ましやか」
 
アーモンドとヴェロニカの花を見ていたら、なんだか心が穏やかに、そしてスッとさわやかになってきました。
 
ややこしい時代ですが、希望をもって生きていきたいですハートうさぎのぬいぐるみルンルン
 
 
 
 
 
 
 

毎週水曜日は、日曜日の主日礼拝のメッセージをお届けしています。


現在、礼拝では「十戒」を学んでいます。

 

今回は第七戒「姦淫(かんいん)してはならない」という戒めです。


「不倫」「浮気」という言葉を思い浮かべると、日本の社会では無視され続けている掟、そして少し重たい言葉に聞こえるかもしれません。

 

しかしこれは、単に結婚の問題だけを語るものではありません。聖書は、神と人との関係を「愛と誠実の契約」として語ります。

 

「姦淫」を禁じる神さまの愛と、真実の中に生きるとはどういうことかを考えてみました。

 

 

2025年度の年間テーマ

お言葉どおりこの身になりますように

~われ弱くとも恐れはあらじ~」

 

年間聖句

「恐れるな…神には、何でもできないことはありません。」(ルカによる福音書1章30.37節)

 

 

3月15日 の礼拝メッセージ

受難節第4主日

「神の愛と真実に応えて生きる—第七戒-」

聖書 出エジプト記20章14節
「 あなたは、姦淫してはならない。」

 

 1.結婚は愛と誠実の契約

 

「姦淫してはならない」という戒めは、まず夫婦の関係の誠実さを守る戒めです。テレビドラマや小説でも、「不倫」「浮気」という話がよくあります。「それがどこがわるい?」と思われているかもしれません。

 

しかし聖書は、結婚を神の前で結ばれる愛と信頼の契約として語っています。

 

創世記には、「人は父と母を離れてその妻と結び合い、一体となる」とあります。

 

結婚は、神さまが結び合わされた二人を「ペア」として、「カップル」として互いに信頼して人生を共に歩むための愛と信頼の契約です。

 

だから姦淫は、単に道徳の問題ではなく、神の前で結ばれた関係を裏切る行為とされるのです。

 

第七戒は、神さまが与えてくださった大切な関係を守るための戒めなのです。

 

 

 2.ホセアが語る神の愛

 

預言者ホセアは、「姦淫する女性」を妻として迎え、姦淫によって生まれた子供も引き取りました。

 

神とイスラエルの関係を、夫婦の関係にたとえて語りました。

 

神はイスラエルを愛して契約を結ばれましたが、民は神を離れ、他の神々に心を向けてしまいました。

 

ホセアはその姿を、夫を裏切る「背信の妻」として語ります。

 

ホセアが伝えたのは、イスラエルの民が自分たちに豊かさや力を与えてくれると思った「別の神」に頼り、神を離れてしまったことです。

 

神との愛の契約を忘れ、別の神に心を向けてしまったその姿を、聖書は「姦淫」と呼びます。

 

しかしホセア書は、それを伝えるだけでなく、驚くことにその姦淫を赦す神の赦しの愛を伝えます。 

 

「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。」(ホセア14:4)

 

 神は、その罪のゆえに民を捨てません。むしろその背信を癒やし、なお愛すると語られます。

 

ここに、裏切られてもなお愛し続ける神の赦しの愛が示されています。 

 

さらにホセアは、神の愛を夫婦の愛だけでなく親の愛のように語ります。 

 

「わたしは、愛の綱で彼らを導き、身をかがめて食べさせた。」(ホセア11:4)

 

 神は人を恐れによって従わせるのではなく、愛の綱で導かれるのです。

 

 

 3.私たちの霊的な姦淫

 

聖書は、神以外のものに心を向けてしまう私たちの姿を「姦淫」と呼びます。つまり、「霊的な姦淫」です。

 

 「その地の神々に従って姦淫を行うことがないようにしなさい。」 (出エジプト34: 15) 

 

神との契約に生きるはずの民が、他の神々に頼ろうとするとき、それは神との愛の関係を裏切る姦淫となります。

 

さらに、ヤコブの手紙ではこう教えます。

 

 「姦淫する者たちよ。世を友とすることが、神に敵することであると知らないのか。」(ヤコブの手紙4:4) 

 

この言葉は、ともすれば私たちも知らず知らずのうちに犯してしまう「姦淫」を教えます。

 

神を信じていると言いながらも、不安なときや迷うときには、神以外のもの、この世の教えや力に安心や導きを求めてしまうことがあります。

 

お金や力、またスピリチュアルな思想や占いなどに心を引かれる人もあります。

 

 しかし聖書は、神との関係を何よりも大切にするように教えています。

 

なぜなら、イスラエルの民をエジプトから救い出された神こそが、命と暮らしに必要なすべてを備え、悪を裁き、民を導いてくださるからです。

 

だから、神を離れて他のものに頼るとき、私たちは愛と信頼に基づく神との関係を損なってしまうのです。

 

 

 4.キリストの花嫁として生きる

 
神と人との関係を、もっと具体的に教えてくれるみ言葉があります。
 
「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会を指して言っているのです。」(エフェソ5:30~32) 
 
このみ言葉は、教会に招かれた一人一人がキリストに結ばれた花嫁のような存在であると語っています。 
 
男・女も関係なく、キリストは花婿として教会を愛し、ご自身の命をささげてまでその愛を示してくださいました。
 
私たちはその愛によってキリストに結ばれ、神との新しい関係の中に生かされています。
 
 不安な時代は、強そうなもの、力あるものに惹かれてしまいます。
 
さまざまな思想や力が人の心を引きつける時代ですが、私たちは キリストの愛の中にとどまって生きるよう招かれています。
 
 キリストの愛と真実の中に守られて、喜びと希望をもって平和の道を歩んでいきたいと思います。 
 
【黙想・祈り】 
父なる神さま。私たちをイエスさまの花嫁として迎えてくださることを感謝します。どうか、あなたの愛と真実のうちにお守りください。そしてあなたの祝福の道、命と愛を平和の道を歩み続けることができるようにお守りください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございました。

 

私たちはときに、神ではないものに心を寄せてしまう弱さを持っています。

 

しかし神さまは、ホセア書が語るように、裏切られてもなお愛し続けてくださるお方です。びっくりします。

 

 
ヨハネによる福音書15:9 招詞

 

 

イエスさまが、その愛をはっきりとお示しくださいました。

 
夕焼け空と街並み
 
人の強さと、神さまの愛の強さはくらべものになりません。
 
青い星形の花、草むらに咲く
 

 

イエスさまの愛のうちに、安心して歩んでいきたいと思いますハート歩くラブラブ

 

 

キラキラnotoにも簡易版のメッセージを載せています。

 

 

 

情報があふれる時代。
 
だからこそ、恐れではなく、心を開いて真実を見つめたい。そんなことを思います。
 
 
今は、私たちの生活になくてはならないものになっているインターネット。
 
けれども、もし、その情報が誤っていたとしたら…
 
最近、とても考えさせられていることがあります。

 

夕焼け空と街並み
 
「これからの社会が不安」…と感じている人が身近にもいます。
 
もちろん、私もその一人ですが。
 
でも、その不安との向き合い方は、人それぞれ違うようです…
 
 
青空に広がる雲
 

今は多くの情報が、毎日のように流れてきます。
 

特にSNSでは、強い言葉や刺激的な内容ほど広まりやすいと言われています。

 

そのため、あるテーマの情報を見ていると、
 

同じような意見の記事や動画が次々に表示されることがあります。

 

こうした現象は「情報バブル」「フィルターバブル」と呼ばれています。
 

つまり、自分が見ている情報が、知らないうちに偏ってしまうことがあるのです。

 

 

さまざまな意見があり、議論があることも自然なことだと思います。

 

ただ、情報の多い時代だからこそ、

 

・一つの情報だけで判断しないこと
・いろいろな視点の話を聞くこと
・少し立ち止まって考えること

 

も大切です。

 

何が真実なのか、わからないことは不安を生みます。

 

自分に都合のよい情報だけを求め、それを真実だと思い込んで安心しようとしてしまうこともあります。

 

十字架と空
 

 

かつて群衆は、誤った情報や思い込みに流されて、イエスさまを十字架につけてしまいました。

 

復活されたイエスさまが弟子たちの前に現れたときも、弟子たちは目の前におられる方がイエスさまだと気づくことができませんでした。

 
「そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて…」(ルカによる福音書24:45)
 

私たちもまた、恐れや思い込みに心を閉ざすのではなく、神さまの前に心を開いていただき、落ち着いて物事を見つめていきたいと思います。

 

「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」(Ⅰテサロニケ人への手紙5:21)

 

情報の多い時代だからこそ互いに耳を傾け、イエスさまに心を開いていただいて、よく考えながら歩んで行きたいと思いますハート歩くラブラブ