庭のレンテンローズ、たった一輪だけですが、今日も元気に咲いています![]()
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毎週水曜日は、日曜日の主日礼拝のメッセージをお届けしています。
現在、礼拝では「十戒」を読んでいます。
今回は、第七戒の「盗んではならない」という教えを思い巡らしました。
2025年度の年間テーマ
「お言葉どおりこの身になりますように
~われ弱くとも恐れはあらじ~」
年間聖句
「恐れるな…神には、何でもできないことはありません。」(ルカによる福音書1章30.37節)
3月22日 の礼拝メッセージ
受難節第5主日
「盗んだらいけない」ということは、誰もが知っています。
けれども聖書が語る「盗む」は、私たちが思っているよりも、ずっと広い意味を持っています。
聖書で「盗む」と訳される言葉(ガーナブ)は、単に物を取ることだけではありません。
この言葉は、人を盗む、つまり誘拐するという意味でも使われ、また、人の心を盗む、すなわち信頼を奪うという意味でも用いられています。
このように「盗む」とは、本来その人に属するものを奪うこと全体を指しています。
それは、お金や物だけでなく、時間や労力、そして人との信頼や思いといった、目に見えないものにも及びます。
さらに聖書は、すべてのものの本当の持ち主は神であると語ります。
「地とそこに満ちるもの、世界とその中に住むものは、主のものである。」(詩編24:1)
そう考えると、私たちが所有しているものも、自分の力で得たように思っていても、神さまから託されたものを預かっているにすぎないのだと気づかされます。
命も、時間も、自分のうちにある良い物も、すべては神さまから与えられたものです。
私たちも、知らず知らずのうちに「盗んでいる」ということがないか、考えてみたいと思います。
「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要であることをご存じである。」(マタイ6:32)
これは、生きていくために日々悩み、労苦している人々に、イエスさまが語られたお言葉です。
神さまは私たちに命を与え、何が必要かをご存じで、その必要を満たしてくださるお方です。
けれども私たちは、必要が満たされてもなお、さらに豊かな生活を求め、少しでも長く生きたいと願いながら、必死に生きています。
もし足りないものがあるなら、分け合えばよいはずです。
しかし、自分だけ満たされ、他の人が困っていても気づかないふりをしてしまう――それが、古今東西変わらない人間の姿ではないでしょうか。
自分が手にしたものだから、自分の思いのままに用いてよい――私たちはどこかでそう考えてしまいます。
けれども、神さまから与えられたものを自分中心に用いるとき、そこに、見えない形で「盗み」が起こっているのです。
旧約聖書最後の書である、マラキの預言の言葉です。
「人は神のものを盗むことができようか。しかしあなたがたは、わたしのものを盗んでいる。」(マラキ3:9)
「神のものを盗んでいる」という言葉は、「神を欺いている」とも訳されます。
このあとに、十分の一のささげものについて語られ、「わたしを試してみよ」と、神が恵みを注がれるかどうかを確かめるようにと招かれています。
しかしこれは、単に献金を勧めているのではなく、神さまとの関係の回復への呼びかけです。
神さまが求めておられるのは、ささげものそのものではなく、神に信頼する心です。
たとえ多くをささげても、神さまへの信頼と感謝のないものを、神さまは喜ばれません。
また、神さまがお与えくださったものを、自分のものとして無駄に用いることも、喜ばれることではありません。
私たちは、自分が手にしたものはすべて自分のものだと思い、自分の思いのままに用いてよいと考えてしまいます。
競争の中で生きる私たちは、本来分け合うべきものを独占したり、神さまにお返しすべきものを自分のものとしてしまっていることがあります。
それが、神さまの目には「盗み」と映るのです。
そして、そのような小さな積み重ねが、人の欲を膨らませ、やがては搾取や独占、さらには戦争のように、他の人の命を奪う現実へと広がっていきます。
「盗んでいた者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。」(エペソ4:28)
エペソの教会には、かつて「盗む」という生き方の中にあった人々もいました。
それは当時の社会の現実でもあり、また現代の私たちの社会とも無関係ではありません。
日本においても経済格差は広がり、貧しさの中で生きる人々の現実があります。
生きるために追い詰められて起こる「盗み」は、単なる個人の問題として片づけることのできない重さを持っています。
また、国の経済が不安になると、また、より豊かに強くなろうとすると、他の国のものを奪おうとする現実も起こります。
しかし聖書は、そこで終わりません。神は私たちを、盗む者から、分かち合う者へと招いておられます。
私たちが、神さまから与えられたものを感謝して受け取り、それを分かち合いながら生きるとき、
必要なものはすでに与えられていることに、少しずつ気づかされていくのではないでしょうか。
富の公平な分配は人類の大きな課題です。
けれども私たちはまず、すべてを与えてくださる神さまに立ち返り、与えられている恵みを分かち合って生きる者とされたいと願います。
父なる神さま。あなたは私たちに、必要なものを与えてくださるお方です。
どうかあなたに信頼し、与えられているものを感謝して受け取り、隣人と分かち合って生きる者としてください。
「乏しい者はひとりもなかった」(使徒4:34)と記されている、あの初めの教会の姿を、私たちのうちにもお与えください。
あなたの霊によって、私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございました。
「盗まない」ということは、あたり前のことだと思っていました。
でも、自販機にお釣りのコインが残っていたとき、交番に届けるのも面倒で、つい持ち帰ってしまったことがあります。
けれども、それを使うのもどこか心苦しく、献金にすることもできずにいました。
人のものを自分のものにする「盗みの心」が、自分の中にもあるのだと気づかされました。
これは、コンビニの「募金箱」に入れた記憶がありますが、これは偽善者以下だなあと思いました。
もう、二度としたくないです。
すべてが神さまから与えられていると気づくとき、
私たちは握りしめるのではなく、分かち合うことへと導かれていくのだと思います。
与えられている恵みを心に覚えて、
「盗む者」ではなく、「分かち合う者」として生きていきたいと思います![]()
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notoにも簡易版のメッセージを載せています
昨日から一泊で、兵庫県北部の但馬地方にある教会を訪ねました。
日本基督教団兵庫教区には、この地域に8つの教会・伝道所がありますが、その半分には専任の牧師がおられません。
教区の、ある委員会のメンバーでの訪問です。
北部にある6つの教会は、2人の牧師が兼任しておられます。
教会と教会の間は、山道を車で1時間以上かかります。
山の斜面にはまだ雪が残っていて、太平洋側の阪神地区とは季節の進みも違います。
そのような中でも、教会と礼拝は守られていました。
牧師がおられなくても、礼拝堂は信徒の方々の手によってきれいに保たれていました。
たくさんの祈りが、この場所で積み重ねられてきました。
すぐそばには、美しい日本海が見えます。
けれども高齢化が進み、町の人口は減り続けています。
教会が、そのような場所であり続けられたらいいなあと思いました。
最後は、城崎温泉街にあるK教会を訪ねました。
温泉で体を休めるように、教会でも魂の休息を得て帰っていただけたら…と思いました![]()
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「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。
…そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(マタイによる福音書11:28.29)
夜は、こちらの教会で泊まらせていただきました。
昨年秋に、別の旅で但馬の教会を訪ねました。カトリック教会も同じ現状だそうです。
わたしたちの教会の週報に掲載しているコラム「からし種」です。
イエス・キリストが知らせてくださった「からし種のような小さな神の国」を、日々の生活の中で見つけた驚きと喜びを綴っています。
教会が、どなたでも安心してお越しいただける場所でありたいと願っています![]()
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教会ってどんなとこ?と
興味をお持ちの方は
ご自由にお越しください。
けっして、こわいところでも、
あやしい?ところでも
ありません![]()
場所や連絡先はホームページの
「アクセス」をご覧ください。
noto にも同じ記事を載せています![]()
イエスさまは、このたとえで、迷い出た一匹を探しに行かれる方だと教えてくださいました。
自分の意思によってではなくても、帰る場所に帰ることができなくなってしまうこともあるのだと、思いました。
迷子になっている方を、イエスさまが探しに来てくださいますように![]()
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明日は主の日、礼拝の日です。
イエスさまに見い出されて神の家に帰ることができました![]()
喜びの礼拝を捧げます。
3月22日(日)の礼拝
午前11時~12時
午後4時~5時
受難節第5主日
聖書:出エジプト記20章15節
メッセージ:「『盗んでいません』とは言えない私たち―第八戒―」
私たちは、太陽が昇ったり沈んだりしていると思うけど、私たちが昇ったり沈んだりしているんですよね。
いつも、自分中心に考えてしまう「罪」は、なかなか消えません。
この詩が、心に浮かびました。
「主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。
主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。
主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。
天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、
東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。」(詩篇103:8~12)
毎週水曜日は、日曜日の主日礼拝のメッセージをお届けしています。
現在、礼拝では「十戒」を学んでいます。
今回は第七戒「姦淫(かんいん)してはならない」という戒めです。
「不倫」「浮気」という言葉を思い浮かべると、日本の社会では無視され続けている掟、そして少し重たい言葉に聞こえるかもしれません。
しかしこれは、単に結婚の問題だけを語るものではありません。聖書は、神と人との関係を「愛と誠実の契約」として語ります。
「姦淫」を禁じる神さまの愛と、真実の中に生きるとはどういうことかを考えてみました。
2025年度の年間テーマ
「お言葉どおりこの身になりますように
~われ弱くとも恐れはあらじ~」
年間聖句
「恐れるな…神には、何でもできないことはありません。」(ルカによる福音書1章30.37節)
3月15日 の礼拝メッセージ
受難節第4主日
「姦淫してはならない」という戒めは、まず夫婦の関係の誠実さを守る戒めです。テレビドラマや小説でも、「不倫」「浮気」という話がよくあります。「それがどこがわるい?」と思われているかもしれません。
しかし聖書は、結婚を神の前で結ばれる愛と信頼の契約として語っています。
創世記には、「人は父と母を離れてその妻と結び合い、一体となる」とあります。
結婚は、神さまが結び合わされた二人を「ペア」として、「カップル」として互いに信頼して人生を共に歩むための愛と信頼の契約です。
だから姦淫は、単に道徳の問題ではなく、神の前で結ばれた関係を裏切る行為とされるのです。
第七戒は、神さまが与えてくださった大切な関係を守るための戒めなのです。
預言者ホセアは、「姦淫する女性」を妻として迎え、姦淫によって生まれた子供も引き取りました。
神とイスラエルの関係を、夫婦の関係にたとえて語りました。
神はイスラエルを愛して契約を結ばれましたが、民は神を離れ、他の神々に心を向けてしまいました。
ホセアはその姿を、夫を裏切る「背信の妻」として語ります。
ホセアが伝えたのは、イスラエルの民が自分たちに豊かさや力を与えてくれると思った「別の神」に頼り、神を離れてしまったことです。
神との愛の契約を忘れ、別の神に心を向けてしまったその姿を、聖書は「姦淫」と呼びます。
しかしホセア書は、それを伝えるだけでなく、驚くことにその姦淫を赦す神の赦しの愛を伝えます。
「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。」(ホセア14:4)
神は、その罪のゆえに民を捨てません。むしろその背信を癒やし、なお愛すると語られます。
ここに、裏切られてもなお愛し続ける神の赦しの愛が示されています。
さらにホセアは、神の愛を夫婦の愛だけでなく親の愛のように語ります。
「わたしは、愛の綱で彼らを導き、身をかがめて食べさせた。」(ホセア11:4)
神は人を恐れによって従わせるのではなく、愛の綱で導かれるのです。
聖書は、神以外のものに心を向けてしまう私たちの姿を「姦淫」と呼びます。つまり、「霊的な姦淫」です。
「その地の神々に従って姦淫を行うことがないようにしなさい。」 (出エジプト34: 15)
神との契約に生きるはずの民が、他の神々に頼ろうとするとき、それは神との愛の関係を裏切る姦淫となります。
さらに、ヤコブの手紙ではこう教えます。
「姦淫する者たちよ。世を友とすることが、神に敵することであると知らないのか。」(ヤコブの手紙4:4)
この言葉は、ともすれば私たちも知らず知らずのうちに犯してしまう「姦淫」を教えます。
神を信じていると言いながらも、不安なときや迷うときには、神以外のもの、この世の教えや力に安心や導きを求めてしまうことがあります。
お金や力、またスピリチュアルな思想や占いなどに心を引かれる人もあります。
しかし聖書は、神との関係を何よりも大切にするように教えています。
なぜなら、イスラエルの民をエジプトから救い出された神こそが、命と暮らしに必要なすべてを備え、悪を裁き、民を導いてくださるからです。
だから、神を離れて他のものに頼るとき、私たちは愛と信頼に基づく神との関係を損なってしまうのです。
長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございました。
私たちはときに、神ではないものに心を寄せてしまう弱さを持っています。
しかし神さまは、ホセア書が語るように、裏切られてもなお愛し続けてくださるお方です。びっくりします。
今は多くの情報が、毎日のように流れてきます。
特にSNSでは、強い言葉や刺激的な内容ほど広まりやすいと言われています。
そのため、あるテーマの情報を見ていると、
同じような意見の記事や動画が次々に表示されることがあります。
こうした現象は「情報バブル」や「フィルターバブル」と呼ばれています。
つまり、自分が見ている情報が、知らないうちに偏ってしまうことがあるのです。
さまざまな意見があり、議論があることも自然なことだと思います。
ただ、情報の多い時代だからこそ、
・一つの情報だけで判断しないこと
・いろいろな視点の話を聞くこと
・少し立ち止まって考えること
も大切です。
何が真実なのか、わからないことは不安を生みます。
自分に都合のよい情報だけを求め、それを真実だと思い込んで安心しようとしてしまうこともあります。
かつて群衆は、誤った情報や思い込みに流されて、イエスさまを十字架につけてしまいました。
復活されたイエスさまが弟子たちの前に現れたときも、弟子たちは目の前におられる方がイエスさまだと気づくことができませんでした。
私たちもまた、恐れや思い込みに心を閉ざすのではなく、神さまの前に心を開いていただき、落ち着いて物事を見つめていきたいと思います。
「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」(Ⅰテサロニケ人への手紙5:21)
情報の多い時代だからこそ互いに耳を傾け、イエスさまに心を開いていただいて、よく考えながら歩んで行きたいと思います![]()
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