佐藤三郎さんの、タキの結婚辞退「1月説」への驚きの声があがっています。タキ宛書簡の変化への考察から始まった議論でもあります。多喜二とタキが暮した生活から遡って考える必要があると思っていますが、今日は逆から考えてみることにします。

 佐藤三郎さんの年譜では、「1931年3月中旬、神奈川・七沢温泉に投宿。4月6日、『オルグ』を完成」とあります。
 澤地久枝さんの『小林多喜二への愛』で、伊藤ふじ子との出会いと七沢温泉からの手紙のことが書かれています。
 多喜二と伊藤ふじ子が初めて出会ったのは1月22日の出獄以降。多喜二とふじ子が一緒にビラ貼りをしたとあります。そして、高野治郎のなまなましい記憶が紹介されています。あのビラ貼りの夕方から「二、三カ月後」のこと、「七沢の蟹」と書いたラブレターがふじ子に届いたとあります。「これほどうまいラブレターは読んだことがないね」と盗み読んだことまでリアルな話です。(その写真を撮って、多喜二の死後、弟の三吾に渡したはずとあります)
 多喜二が七沢温泉に投宿したのが3月中旬、伊藤ふじ子へ「ラブレター」を送ったのがこの投宿中となります。

 そうすると、「3月辞退説」を採ればタキの辞退からすぐに、ふじ子へ「ラブレター」を送ったということになります。これは、あまりにもあまりですよね。
 だから、もっと早い時期にタキからの結婚解消の話があったと思います。

 であれば、1930年11月22日の「お前」から1931年1月26日の「君」の手紙の間にタキから結婚解消の話があったと考えた方が自然なような気がします。11月17日のタキとの面会で多喜二は、そんなタキの雰囲気から敏感に感じたのだと思います。それが、あえて「お前」という呼びかけによって、タキを妻だと思っていることを強調したのではないでしょうか。

 さらに「お前が途中でやめた話は、手紙に上手に書いてくれるといいと思う」というのは、タキが父の容態(12月に亡くなる)や家族への心配から、多喜二と夫婦を続けることができないと匂わしたタキの気持を察しての言葉かもしれません。

 タキの結婚解消は、1930年11月22日の「お前」から1931年1月26日の「君」の手紙の間だと考えるのが妥当かと思いました。12月のタキの父親の死は、タキにとって決定的なことだったかも知れませんし、それ以前にタキは多喜二に断りの手紙を書いていたことさえ考えられます。
 今は、ただ思っただけですが。