(映画)「1984」 | 翡翠のブログ

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1984

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『1984』(原題: 1984/Nineteen Eighty-Four)

制作国 英国
制作年 1984年
監督 マイケル・ラドフォード
主演 ジョン・ハート、リチャード・バートン

あらすじ
1984年、世界は、互いに争うオセアニア、ユーラシア、イースタシアの三つの国家に分かれている。
舞台は、その一つのオセアニアのロンドン。
ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務しており、役人として日々、
新聞記事の修正、削除、歴史記録の改竄作業を行っていた。

オセアニアの国民は国家リーダーの「ビッグ・ブラザー」に対する絶対的な服従と忠誠を誓わされており、思想警察によって徹底的に監視されている。
徐々に体制に対する疑問がめばえたウィンストンは、秘かに禁じられている日記をつけはじめる。
同時に、ウィンストンは、若い女性ジュリアと出逢い、2人は恋に落ちる。
ウィンストンは古道具屋主人チャリントンから店の二階を借りて、つかの間の愛と自由を楽しむが、ある日、突然、思想警察が踏み込んできた。逮捕されたウィンストンは拷問の受け、人格を破壊され、
「ビッグ・ブラザー」に屈服する。

原作は、英国を代表する20世紀の作家の1人でありますジョージ・オーウェルが1949年に発表した
名作です。

(ネットより)




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(感想)
冒頭の集会の様子はまるでヒトラー時代のよう。
あれも一種の宗教なのかなと思う。
「党」に忠誠を近い、党に反発するものを裏切り者、と激しく詰り
それがある意味、快感になっているようにも見える。
「狂信的」な状態は、人を酔わせるのだろう。

しかしそんな「一党独裁」体制に、疑問を持つ主人公スミス。
真理省で毎日、歴史の改竄をするスミス。
人間が考えることをやめてただ隷属して、言われたことだけ
こなす社会は恐ろしいが、支配者にとっては最高の体制だろう。

陰に隠れて支配するものは、誰にも邪魔されない。

だから前に出すのは「軽い頭」で見越しに乗せやすい人間なのだ。

この小説が書かれた当時はソ連の共産主義体制を想定して
書かれたそうだが、これは現代にも当てはまるものだ。






日本だってそうだ。

体制が違うだけで、今ならば「グローバリズム」という
「独裁」が跋扈している。
民主主義という建前になっているが、
実際はどうだろう。
重要な法律も、閣議決定でどんどん進められ、
国民の声を聞くこともない。
どこが民主主義なんだろ。


グローバリズムこそが「善」で「正義」
それに反対することを許さない、
反論自体をメデイアが報じることはほとんどない。

消費税にしても、国の借金にしても、
メデイアが報じるがままに信じている人も
まだまだ多いのだろうか。



小泉政権のとき、単なる「首切り」が「リストラ」と
「新語」に変えられ、拒否感を薄めた。
もちろん、リストラされた本人は生活に行き詰まり、
人生を破壊され、塗炭の苦しみを味わった。
中には自殺に追いやられた人々もいた。
でもそれも「自己責任」という「新語」で誤魔化され
しかもあろうことか、それが「正しい」として
批判する人の口を塞いだ。

今、少子化におちいっているのも
政府の目論見通りにコトが運んでいるからではないのか。

日本はチャイナなどに比べ「自由」があるように見えるけれど、
本当に自由なのだろうか。
例えば大っぴらに移民に反対などすれば
「差別主義者」などと即座に非難される。
そうなれば「忖度」して
自分から言わなくなる、という構造。

言論の自由があるのだ、という幻想を抱かせることに成功している。

映画の中では人々は制服(人民服)みたいなものを着ている。
スミスと女が逢瀬を重ねるとき、女は隠し持ってきた
ワンピースを着る。
地味な、何気ないワンピースだ。
だが
それを着る女の晴れやかさ、華やいだ気持ちが
伝わってくるのだ。
それは、結構強く、大きい比重を占めるのかもしれない。
「自由」に生きているように思わせる象徴的な「ファッション」
好きなように生きていいように思い込ませるツール。

確かに日本は自由な国なのかもしれない。
でもやっぱりどこかで「思い込まされている」ような気がする。


考えさせられる作品。


舞台は1984年だが、その街はとても荒廃していて
みすぼらしく、貧しい。
テレスクリーンで監視され、反逆者ゴールドスタインのフィルムを
延々流し、人々に「自発的」に批判させるように導いている。

暗く、陰鬱な重い空気が垂れ込めて
息苦しいような映画。
共産主義でも資本主義でも、行き過ぎてしまったら
どちらにしろ閉塞感が生まれるのではなかろうか。


この中でも興味深いのは
「ニュースピーク」という概念だ。

以下に引用。

 【「新語法の全般的な目的は思想の範囲を縮小するためだということが分からないのかね? 終局的には思想犯罪も文字通り不可能にしてしまうんだ、そうした思想を表現する言葉が存在しなくなるわけだから。必要なあらゆる概念はたった“一語”によって表現され、その意味は厳格に限定されて、その副次的な意味というのはことごとく抹消されたあげく、忘れられてしまうだろう」
 イングソックとはニュースピークそのものだ。】




言葉を削っていけば、思考も狭められるというのである。
確かにそうだと思う。
日本は特に世界的にも言葉の数が膨大だ。
それは考えの多様性、柔軟性を高めている。
が、逆に言葉が少なかったら。
思考は短絡的、単純化、単一化してしまうだろう。

現代日本においても、日本語はとても豊かにもかかわらず、
普段私も含め、マスコミなどが使う言葉の脆弱なこと。
最近、ますますそれが酷くなっている気がする。

わざとなのか、たまたまなのか、
マスコミの使う言葉に民衆が強い影響を受け、そのまま使っているのが
現実で、そんな貧弱さが、短絡的思考に結びついている人が
出てくるようにも思える。