昭和の伝説の女優、原節子さんが逝去された・・・。




(転載開始)
昭和の大スター、元女優の原節子(はら・せつこ、本名・会田昌江=あいだ・まさえ)さんが
9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で死去したことが25日分かった。95歳。横浜市出身。
1963年(昭38)の映画出演を最後に表舞台には出ず
その後の生活はほとんど知られていなかった。

 原さんは1920年(大9)6月17日生まれ。実家の生活苦のため、
女学校を中退し、35年(昭10)に日活多摩川撮影所に入社。
同年の映画「ためらふ勿れ若人よ」でデビュー。役名「節子」をそのまま芸名にし
「原節子」となったという。日本とドイツが急接近しつつあった37年、
ドイツのアーノルド・ファンク監督による初の日独合作映画「新しき土」のヒロインに抜てきされると、
日本人離れした容姿は国内だけでなく外国でも話題となり、一気にスターとなった。

 その後東宝へ移籍。戦時中は「ハワイ・マレー沖海戦」、「決戦の大空へ」、「勝利の日まで」など
戦意高揚映画に数多く出演した。

 戦後も化粧品会社のカラーポスターで暗い世相を明るくすると、
黒澤明監督の戦後初の作品「わが青春に悔なし」に出演。47年には東宝を離れフリーとなる。
「安城家の舞踏会」「青い山脈」「お嬢さん乾杯」など戦後を代表する作品に出たが、
49年に初めて小津安二郎監督と組んだ「晩春」に出演。61年の「小早川家の秋」まで
小津作品に計6本出演した。

 「永遠の処女」など、さまざまなキャッチフレーズが付けられたが、何度か体調不良が伝えられ、
そのたびに引退がささやかれたが、62年の「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」が最後の映画出演となった。
63年に小津監督が亡くなり、その通夜に出席したのを最後に表舞台から遠ざかった。
神奈川・鎌倉で妹夫婦と生活しているとされ、写真週刊誌などが何度も“スクープ”を狙ったが、
50年以上その姿をとらえたものはなかった。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/11/25/kiji/K20151125011575800.html

(転載終了)





*始めてみた作品は小津安二郎の「晩春」でした。
美しく淑やかでお茶目・・・・そんなイメージでした。
これぞ「美人」というに相応しい人だと思いました。
父役は笠智衆さんで、二人がとても良かったです。
親子で行った最後の旅行先で
結婚したくない、という娘に対し父親として
教え諭すシーンは泣けます・・・。
今の時代は結婚することが幸福に繫がるとは
限らない、と言われそうですが
それでも親心としては結婚して子供を産んで・・・と
いう人として、生物としての営みを我が子にも
経験してほしいという願いはよくわかります。


その後、小津作品での原さんをほとんど見ました。
その多くは、結婚適齢期を過ぎた娘の役、
なかなかお嫁に行かず、親はやきもきする・・・という
設定が繰り返し描かれました。
または戦争で夫を失って、後家さんになってひとり
生きている女性の役とか・・・。


山中貞雄の「河内山宗俊」に出演したのは15歳の頃
だったかな。可愛い!鈴を転がしたような
華やかで、あでやかな声でとても魅力的だった。
この物語もまた、とても良かったんです。
最後は本当に泣けるしね。
最初は一本の小刀から話が展開していき、
脚本もよくできていました。
山中貞雄としてはジョン・フォードの作品を目指したらしいです。




「白痴」では那須妙子(ナスターシャなので)を演じました。
多くの「いいとこのお嬢さん」という役柄のイメージとは異なり
金の為に金持ちに身売りするという難しい役どころを
迫真の演技でこなしていました。
これはドストエフスキー原作でそれを日本の北海道に
置き換えた黒澤明の作品です。人間の悲喜劇を、
「白痴」と言われるひとりの無垢で純粋な男を
中心に描かれる人間愛憎劇です。見ごたえがあります。
森雅之、三船敏郎、志村喬、東山千栄子、久我美子
など錚々たる役者さんが出演し、原さんもいつもの
松竹作品とは違った面を見せました。

昭和の一時期、時代を代表する
永遠の女優さんでした。

慎んでご冥福をお祈りいたします。