父の日記はかなり処分していたみたいで
二冊ほどしか残っていませんが
終戦の年のものは残っていました。
当時、父は36歳、開戦の年に結婚し
直ぐに病に倒れ徴兵されることはなかったのですが・・・。
8月15日の前の日、ラジオでお知らせがあり
「重大な放送があるので国民は必ず聞くように」という
ような意味であったようです。
その時、これは愈々一億玉砕だ、と思ったそうです。
本土決戦にて、国民は最後の一人まで
戦ってくれとの放送だろうと。
それこそが本望だと。
故に当日の玉音放送には
かなり衝撃を受けたようでした。
何故、最後まで戦わないのか、と
歯噛みをしたそうです。
その感覚は、当時の人が同じように持ったものか
どうかはわかりません。
同じ日本人でも、年齢や場所や立場、性別で
違いはあったのでしょう。
「終戦」と聞いて、「助かった」と思った人や
「これで漫画が描ける」と思ったという手塚治虫のような
人とか、「ホッとした」と言う人、
まあ、それも真実でしょうが、今はそういった声ばかりが
多く表面に出てきますね。
父の場合は病の為、戦場に行けなかった、だからこそ
余計後ろめたい気持ちもあったろうし、本土決戦に
なれば死力を尽くして戦おう、という
思いが強かったのかもしれません。
因みに私の叔父(父の弟)は
シナ戦線に派兵されており、終戦を現地で聞き
復員する途中、朝鮮半島では叔父など日本兵が
通ると現地の人たちは「バカ、バカヤロ」と
随分、蔑んで暴言をはいたりしたと言う事です。
また当時、父は福島に疎開していましたが
東京から戻った人に様子を聞くと
列車の中でも日本人は(その人は)朝鮮人に
座らせてもらえなかった、「負けたくせに」と
いうような言葉も吐かれ、日本が負けた事で
自分達が勝ったように浮かれていたという
当時の様子も少し書かれていました。
そして米軍が日本に来て直ぐ、強姦事件が多発した事も
書いていました。
また、ある農家では、家畜の牛を米兵に殺され
家の前に、臓物だけ残し、立ち去った件もあった、
ということで、やはり終戦直後は大変だったようです。
