「12人の優しい日本人」


(三谷幸喜作)



随分以前に見た映画だが、この映画は


まさに「12人の怒れる男」のパロデイであり


日本で陪審員制度が施行されているという


架空の設定のコメデイであった。





この映画を見た頃は、日本で陪審員なるものは


決して誕生しないと固く信じていた。


先ず本家の「12人の怒れる男」これは


アメリカの陪審員制度を鋭く批判した社会派映画。


このような制度が日本になくて良かった、と


心から思ったものだった。


容疑者の見かけへの偏見、


生い立ち、日頃の行動、など


調べ上げた事件の事実よりもそのような


表面的な部分でいかに人は印象付けられてしまうことか。


早く家に帰りたい、野球の試合が見たい、皆が


そう思うなら一緒でいい、などなど


一人の命が掛かった決定を、いとも簡単に


やっつけ仕事のように考える人達。


そんな中でたった一人だけ異を唱え


1対11で論戦を繰り広げていく息も詰まるような


迫力ある問題作だった。



その力作をなんとも軽やかにパロデイにしてみせたのが


三谷幸喜。単なるコメデイに見えながら


意外と日本人の特質を突いているのかもしれない。



みんなの意見に流される人も確かに日本人的だ。


どちらか決めかねて「むうざい」と


手を中途半端にしか上げない人。


こんなこと、私には向いてないんですよお~と言って


パニックになる人、そんな中、一番おとなしく


口下手と思われた人が意外にも


頑固に自分の意志を通そうとする。


「よくわからないが、違うような気がする」といって


譲らない。意外と日本人ってそういうとこ


あるかも。


それにしても当時は完全に架空の話として見ていたのが


まさか本当に「陪審員」ならぬ「裁判員」なるものが


誕生するとは。



私はこの裁判員の目的は「死刑判決」が減る事を


見越し、事実上「死刑制度」が有名無実の状態に


為ることにあるのではないかと思っている。


一般庶民にとって有罪、無罪だけを判断するのでさえ


負担があるだろううに、それを量刑まで


決めさせるのはこの「優しい」日本人にとって


甚だ酷である。


あまつさえ、「死刑」判決を出す事は


滅多に出来ないことかもしれない。



庶民感覚を司法の場に取り入れる、というのであれば


何も庶民を駆り出さなくても司法自身が


一層の努力をするべきだと思うが。




ともかく遂に来月からこの歪な


庶民苛めの制度は始まろうとしている。


一体どうなることか・・・・。不安である。