竹内栖鳳ー④破壊と創生のはじまり | 京都案内人のブログ

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蕭条(右隻)・1904年(明治37)

 

 

 

 

欧州旅行から帰った頃の栖鳳は、

 

実力、名声ともに充実し京都画壇

 

を牽引する立場となっていた。

 

 

 

 

蕭条(左隻)・1904年(明治37)

 

 

 

将来には在来の日本画を一度破壊して固陋なる

悪習を捨て、善良なるものに編み直さねばならぬ。

(栖鳳談)

 

こうした栖鳳の態度は、次世代の

 

若手画家を鼓舞し、京都画壇の

 

主体的な想像力が生まれた。

 

 

 

象図(右隻)・1904年(明治37)頃

 

 

象図(左隻)・1904年(明治37)頃

 

 

 

1907年(明治40)に全国規模の

 

公募展である文展(文部省美術展覧会)

 

が始まった。

 

 

 

雨霽(あまばれ・右隻)・1907年(明治40)

第1回文展・出品作

 

雨霽(あまばれ・左隻)・1907年(明治40)

 

雨霽(左隻の部分)・1907年(明治40)

 

 

 

 

栖鳳は審査員に選ばれる一方で、

 

自身も出品して高い評価を得た。

 

 

 

 

飼われたる猿と兎(右隻)・1907年(明治40)

 

 

飼われたる猿と兎(左隻)・1907年(明治40)

第2回文展・出品

 

 

 

 

毎年、審査員と出品を続けるが、

 

初めて本格的に取組んだ人物画は

 

鮮やかな群青色と白い芙蓉の花、

 

扇の朱、金などの色彩の対比を

 

強調して仕上げている。

 

 

 

 

アレ夕立に・1909年(明治42)

第3回文展・出品

「アレ夕立に」のタイトルは、清元「山姥」の一節

「あれ夕立に濡れしのぶ」から取られている。

 

 

 

大胆な色彩と色の対比、そして扇

 

を翳して腰を落とした舞妓の一瞬

 

の振りを見事に描き、栖鳳の創生

 

する日本画にまた一歩近づいた。

 

 

 

 

熊・1910年(明治43)