ある日、京都の寂庵を訪ねて来た
老作家がいた。
それは突然の訪問だったらしい。
寂聴さんは、どうもてなしていい
ものか、すっかり上がってしまっ
て、祇園の料亭の仕出やら舞妓も
お茶屋から来てもらったらしい。
若き日の宇野千代 画:横尾忠則
接待を受けるのはあの宇野千代。
瀬戸内さん、これはやり過ぎよ
と吹き出したそうだ。
この日、宇野に関する年譜や作品
に登場する、男性の名前を書いた
一枚の名簿を置いて聞いてみた。
瀬戸内さんは、どういうご縁で
先生の小説にどんな影響を与えた
のか。と、訊くつもりだった。
それを指で示すと、間髪を入れず
宇野千代の高い声が返ってきた。
「寝た」
度肝を抜かれながらも、次を指す。
「寝た」
この後、すべてがネタ、ネナイ、
ネタの連発で、ネナイよりネタ
方がずっと多い。
その答える時も表情は玲瓏として
明るく、声はあくまで天真爛漫
であった。
初めは驚いて、狼狽えていたが、
そのうち宇野さんが観音様の
ように見えてきた。
晩年の宇野千代 画:横尾忠則
宇野さんとこの世で縁あって関わ
った男のすべては、千代観音の
捨身の広大な慈悲を受けて、
有難い恩寵を頂いたのに過ぎない
と思えてきた。
宇野千代が一番好きだったのは、
尾崎士郎だという。
御歳85歳のことだった。
瀬戸内寂聴「奇縁まんだら」より
著:瀬戸内寂聴
画:横尾忠則
発行:日本経済新聞出版社