田中一村ー新しい画風を模索した千葉時代 | 京都案内人のブログ

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「秋色図」

1945年(昭和20年代)頃・紙本着色・額装・154×62.5cm

・田中一村記念美術館蔵

 

 

 

 

 

 

南画家として名を馳せた米邨だったが、南画に飽き足らず

 

23歳の時に独自の絵画に挑戦し始めた。

 

だが支援者は南画家「米邨」(一村)を買っていたが、

 

新しい作品には興味を示さなかった。

 

 

 

 

 

「蕗の薹とめだかの図」

1931年(昭和6)・紙本着色・軸装・157×34cm

・田中一村記念美術館蔵

一村が南画と訣別した一作。新しい作画を模索する跡が見て取れ、

自然の佇まいを正直に描いた素朴な作品。

 

 

 

 

 

パトロンを失った米邨(一村)は、生活も侭ならぬようになり、

 

30歳の時に母方の親戚を頼って千葉に移住した。

 

 

 

 

 

「竹」

1933年(昭和8)・絹本水墨・軸装・146.7×35.1cm

・個人蔵

 

 

「南天図」

1935年(昭和10年代)頃・絹本着色・軸装・140×41.5cm

・個人蔵(田中一村記念美術館寄託)

 

 

 

 

 

新たな画風を求める米邨(一村)だったが、

 

「蕗の薹とめだかの図」を描いた後の20歳代から

 

30歳代の作品は非常に少ない。

 

おそらくは生活のために働いていたためだと思われる。

 

 

 

 

「トラツグミのいる秋色図」

年代不詳・絹本着色・軸装・140.2×34.9cm

・個人蔵(田中一村記念美術館寄託)

 

 

 

 

 

そして日本は第二次世界大戦に突入して、

 

米邨(一村)の生活はさらに困窮となっていった。

 

 

 

 

 

「あばさけ観音」:

1940年(昭和15年)・紙本着色・軸装・136.1×34.5cm

・田中一村記念美術館蔵

 

 

 

 

 

この当時の米邨(一村)は病弱で、兵役は免れたが

 

終戦の年まで闘病生活を続けていた。

 

そんな中でも平和を祈念したかのように、

 

数枚の観音像を描いている。

 

 

 

 

 

崖上観音図:(左)

1946年(昭和21年)・紙本着色・軸装・134×33cm

・田中一村記念美術館蔵

崖上観音図:(左)

1948年(昭和23年)頃・紙本着色・軸装・131.2×41cm

・田中一村記念美術館蔵

 

 

 

 

 

戦後、平和を噛みしめるようにひたすら農村の風景や

 

自然の景色、動植物の写生に没頭する日々を送った。

 

 

 

 

 

 

ニワトリのスケッチ

 

 

 

 

 

そのスケッチから新しい画風への模索がなされ、

 

後に奄美で描く花鳥画の基礎を身に付ける。

 

叙情豊かに描き出した千葉の情景が美しい。

 

 

 

 

 

千葉寺の春(馬のいる風景):昭和20年代のスケッチ

68.5×86.6cm・田中一村記念美術館蔵