上田秋成のこと | 京都案内人のブログ

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春雨物語

春雨物語:
雨月物語の後に刊行された小説集。
写真は最終編「樊噌」の部分









「雨月物語」(※1)の作者として知られる

上田秋成は、およそ280年前の1734年(享保19)

6月25日に大阪で生まれた。


※1雨月物語:
1776年(安永5)の夏に刊行。
半紙本5巻5冊(京都寺町五条上ル 梅村判兵衛・
大阪高麗橋筋 野村長兵衛 合刻本。
白峯・菊花の約・浅茅が宿・夢応の鯉魚・仏法僧・吉備津の釜・
蛇性の婬・青頭巾・貧福論の9話から成る。

因に、溝口健二監督の映画「雨月物語」は、
「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2編などから脚色された。
(1953年・13回ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞)





父母(※2)に関して、秋成自らも

「生レテ父無シ、其ノ故ヲ知ラズ」(自像筥記)と

書くように、母のこともほとんど語らなかった。


※2奈良御所市の旧家松尾家の娘や、
曾根崎の妓家の生まれなどの説がある。












肖像

上田秋成像











4歳の時に堂島永来町で紙油商を営む

「嶋屋」の上田茂助の養子となる。

子供の頃は病弱で、養父母から篤い愛情を受けて育った。

そのため、自由で奔法な少年期を送って

後の奇異な人生の因ともなっている。





若い頃より学問(※3)の素養があったようで、

20歳前後で俳諧の世界に入り活躍したといわれる。

27歳の時に植山たまと結婚し、33歳の頃から

小説を書き始めるなど意欲が旺盛な質だった。

※3賀茂真淵や井原西鶴、近松門左衛門ら
に影響を受けて、国学を建部綾足や加藤宇万伎などに学んだ。
本居宣長と皇国論や復古、古代の音韻や仮名づかい
(古事記など)などの大論争をしたことでも知られる。







順風満帆に見えた秋成だったが、

1770年(明和7)に養父を亡くし、

その翌年には明和の大火で家財一式を失う。

破産した秋成は、医者を志して

儒医都賀庭鐘(※4)の門弟となる。

医学を勉強しながら、古典研究にも力を入れた。



※4都賀庭鐘(つがていしょう):
1718年(享保3)~1794年(寛政6)。
大阪の儒学者、医師、読本作家で書画や
篆刻にも才があった。
秋成は医学を学びながら読本作家
としても啓発されたという。









1776年(安永5)に開業医となり、

ついで代表作となる「雨月物語」を発表。

その後も医業と文学を続けていたが、

1793年(寛政5)の6月、60歳の時に

妻たまの故郷である京都に移り住んだ。










上田秋成石碑

「上田秋成翁終焉地」歌碑:
梨木神社境内(マンション内)に残されているが、
神社と秋成には何の関係もない。
(写真はマンション建設前の撮影)
「ふみよめば 絵を巻きみれば 
かにかくに 昔の人の しのばるるかな」











京都では知恩院門前や南禅寺畔など

居住先を何度も変えたが、校訂を生活の糧

として多くの出版も行っている。






しかし寛政9年、糟糠の妻に先立たれて

精神的な打撃を受けて長く悲しみに沈んだ。

その心労からか翌年に右目を失明。

すでに大坂時代に左目の視力がほとんどなかったが、

治療により何とか左目が快復。

以後、精力的に学問の研鑽に励み、

数々の著書を刊行した。






しかし、70歳を過ぎた頃より生活は困窮を極め、

知人や篤志家の家を転々としながら暮らした。





そして、友人で歌人でもあった羽倉信美の

百万遍屋敷(※5)に身を寄せ、

1809(文化6)6月、羽倉邸にて

76歳の奇異な人生の終止符を打った。


※5百万遍屋敷(ひゃくまんべんやしき):
現在の寺町通広小路付近で、東大路今出川の百万遍ではない。
羽倉信美(はくらのぶよし)は、伏見稲荷大社の神職であり、
歌人でもあった。1750年(寛延4)~1827年(文政10)。










生前から親交のあった南禅寺近くの

玄門和尚の西福寺(※6)に葬られた。










西福寺


※6西福寺:
源智山と号する禅林寺派浄土宗の寺院。
現在の墓は1826年(文政4)の13回忌に
建てられたもの。諡は「三余斎無腸居士」。

墓碑には「上田無腸翁之墓」と刻まれているが、
この無腸とは、蟹を意味する。
秋成が自身の性格を語った「人皆縦ニ行ケバ、
余独リ横ニ行クコト蟹ノ如シ」からとされる。
墓の台座も蟹を型どっている。


墓