続・小林秀雄と本居宣長 | 京都案内人のブログ

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菊池寛と

菊池寛(右)と小林:1940年(昭和15)6月












小林秀雄の誕生日は4月11日と

なっているが、高見澤潤子(※2)の

「兄小林秀雄との対話」によれば、

本当の誕生日は3月末だったという。

※2小林秀雄の実妹で、夫は漫画家の田河水泡。





何日かまでは分からないが、もしかして

私と同じ誕生日かもと、余計に親近感がわいた。





私はポール・サイモンが好きで、彼が創った

「フランク・ロイド・ライトに捧げる歌」で、

ライト建築に出会ったように、

小林秀雄から「本居宣長」を知った。













書斎にて











小林秀雄は、東京神田の猿楽町に生まれた。

この猿楽町と神保町の一帯は、

古書街として知られ専門の古書を

扱う相当数の店が軒を並べる。

小林秀雄が23歳の春、初めてランヴォ(※3)に

出会ったのもこの辺りだった。

※3ジャン・ニコラ・アルチュール・ランヴォ:1854年~1891年。近代フランスの詩人。16歳で「地獄の季節」を発表して、19歳までの3年間で詩作を止めた天才詩人。その後はまさに波瀾万丈の人生で、傭兵や貿易商人、翻訳家など世界各地を渡り歩いた。骨肉腫から癌が全身に転移して37歳で没した。
小林は、その詩の洗礼を受け、一時大いに魅せられて「ランヴォ事件」と表現している。














1922年(大正11)、20歳の時に初めての

小説「蛸の自殺」を同人誌に発表。

これを志賀直哉に送って、賞賛の手紙を貰って以来、

終生志賀を敬愛している。





当時の志賀は京都の山科や奈良の住まいで

執筆活動をしており、小林は度々訪ねている。





小林は23歳の時、東京帝国大学文学部

仏蘭西文学科へ入学し、同4月に

中原中也と長谷川泰子と出会う。




これが彼らの運命を決定づけた。









泰子

長谷川泰子












泰子が小林に魅かれたのは、

雨の日に小林が傘を持たずに

中也の家を初めて訪ねた時だ。





泰子によれば、

「濡れながら家の軒下に

駆け込んで来て、私を見るなり、

奥さん雑巾を貸して下さい」

と言ったそうだ。





それが泰子にとって、

非常に新鮮に映ったようだ。





しかし、二人の暮らしは長く続かなかった。

3年足らずで、小林は逃げるように

泰子と別れて関西に流れた。





この始末を、小林は後に

「中原中也との思い出」で

次のように書いている。





「悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、

私は告白といふ才能も思い出といふ

創作も信ずる気にはなれない」(原文のまま)





小林はこの時点まで、あくまでも小説家に

拘っていたが、「Xへの手紙」の発表後に

小説が書けなくなった。





この泰子との恋愛によって人生観の

形式を喪い、あんな目茶目茶な恋愛は

小説にならず、だから諦めたという。





批評家として文壇にデビューしたのは、

27歳の時に書いた「様々なる意匠」。

これは「改造」の懸賞評論に応募したもので、

2席に入選して掲載された。





同年にランヴォの詩集「地獄の季節」

を翻訳して、「文学」創刊から連載、

評判を呼んで翌年に刊行された。






1933年(昭和8)、小林は林房雄、永井龍男、

武田麟太郎、川端康成、らと「文学界」を創刊。

昭和19年の廃刊まで、優れた評論を

次々と発表している。






その後は、人物や音楽、絵画、歴史など

見識の高さを示すように独自の論評を次々に発表、

批評家の第一人者としての地位を築いた。









小林秀雄は子供の頃から音楽にも慣れ親しみ、マンドリン演奏が得意であった。文学以外にも歴史や美術にも造詣が深く、とくに後年は骨董に没頭して、趣味が高じて相当の目利きだったようだ。小林はこうした世界を通して、人生をいかに生きるべきかを問い続けた生涯だった。

徳利と杯

小林が好んで使っていた徳利と杯。
盃は吉川英治の遺物として夫人から
贈られたもの。この志野焼の
「こだわりのない、まもともな明るさ」
は吉川と小林の友情の印という。













1965年(昭和40)、ライフワークともいえる

「本居宣長」を「新潮」で連載開始。








宣長本

「本居宣長」と「本居宣長 補記」










11年の後の74歳で完成させ、

翌年に刊行された「本居宣長」は

第10回日本文学大賞を受賞した。




あまりにも長い連載に、友人たちは

まだやっているのか、いつまでやるんだ、

を挨拶代わりにしたという。

小林は、その返答に宣長が「古事記伝」を

書くのに30数年をかけている。

僕が10年やそこらかけたところで、

どうということはない。

近頃はみな仕事が速すぎる、と皮肉で返している。










孫と小林

孫の手をひく小林:
孫は現在の白洲信哉氏で、小林の娘明子と
白洲次郎の二男兼正の子。
白洲次郎と正子の孫。

















つづく