近年、「意味のある人生を生きたい」という価値観は、疑われることのない前提として語られるようになった。将来につながる経験、成長を実感できる時間、自己実現へ向かう選択。これらは一見、健全で前向きな人生観に見える。しかし私は、この「意味を求める姿勢」そのものが、現代に特有の生きづらさを生み出しているのではないかと感じている。


 意味を求めるという態度は、日常の時間を常に評価の対象にする。今日一日は何かを得たか、この経験は自分の糧になったか、将来の自分にとって有益か。こうした問いは、人生を丁寧に生きようとする意識の表れでもあるが、同時に「今」を常に未完成なものとして扱う構造を内包している。


 哲学者ハンナ・アーレントは、人間の活動を「労働・仕事・活動」に分け、近代社会が有用性や成果に過剰に価値を置くことの危うさを指摘した。意味や成果に回収できない時間は、現代社会において価値の低いものとして扱われがちである。しかし、人間の生の実感は、必ずしも有用性の中にあるわけではない。


 意味を過剰に求めることで、人は現在を生きることが難しくなる。今の自分は未完成であり、将来の自分こそが完成形であるという前提が無意識に置かれるからである。その結果、現在の生活や感情は常に「途中段階」として相対化され、満足が先送りにされ続ける。


 この構造は、社会学者ジグムント・バウマンが述べた「液状化した近代」にも通じる。人は常により良い状態へ移行することを求められ、留まることが許されない。その中で、意味のない時間や停滞は失敗として認識されやすくなる。しかし実際には、人生の大半は目的を持たない時間によって占められている。


 また、意味のある人生という概念は、他者との比較を不可避にする。誰かの成功や充実が可視化される現代において、自分の人生の意味は相対的に測られる。その結果、意味を見出せない時間は「無駄」や「遅れ」として自己否定へとつながっていく。


 精神科医ヴィクトール・フランクルは、人は人生の意味を「与えられる」のではなく「見出す」存在だと述べた。しかし重要なのは、その意味が生きている最中に常に明確である必要はないという点である。意味はしばしば、後から振り返ったときに初めて立ち上がる。


 意味のない時間を許容することは、人生を放棄することではない。それは、成果や評価から一時的に距離を取り、人間としての感覚を回復する行為である。何も達成しなかった日、理由のない感情、目的のない時間。それらは無意味なのではなく、意味化される前の生の状態だと言える。


 意味のある人生を生きようとする前に、意味のない時間を生きることを肯定する必要がある。そうした視点を持ったとき、人生は目標達成の連続ではなく、回収されない時間を含んだ厚みのあるものとして立ち現れてくるのではないだろうか。