以前の私は、「何者かになりたい」という思いを、特別なものとしてではなく、当然の感覚として抱いていた。将来の目標を聞かれれば、明確な答えを持っていないことに焦りを感じ、周囲が夢や進路について語る姿を見ては、自分だけが取り残されているような気がしていた。しかしある時から、その焦りは次第に薄れ、「何者かにならなければならない」という考えそのものに疑問を持つようになった。


 きっかけは、明確な成功像が見えなくなったことではなく、むしろ成功像が溢れすぎていることにあった。SNSやメディアを通じて、さまざまな「理想の生き方」が可視化され、誰もが簡単に他人の成果や充実した生活を目にするようになった。その中で、「何者かになる」とは、他者の用意した枠に自分を当てはめることなのではないかと感じ始めた。


 「何者かになりたい」という欲求は、自分の内側から生まれたようでいて、実際には他者との比較から生じている場合が多い。周囲より優れていたい、遅れていないと証明したいという気持ちが、漠然とした焦燥感として現れる。しかし、その焦燥感に従って目標を設定しても、達成した瞬間に次の比較が始まるだけで、安心は長続きしない。


 また、「何者かになる」ことは、将来の自分に価値を預ける行為でもある。今の自分は未完成で、将来何かを成し遂げて初めて意味を持つ、という考え方である。しかしこの発想は、現在の時間を常に仮のものとして扱うことにつながる。日常の小さな満足や安定が軽視され、「今ここ」にいる自分が評価されにくくなる。


 「何者かになりたい」と思わなくなった瞬間は、夢を諦めた瞬間ではない。それは、他者の基準で自分の価値を測ることをやめた瞬間である。特別な肩書きや成果がなくても、今の生活や感覚に一定の納得があれば、それで十分なのではないかと考えるようになった。


 何者かにならなくても、人は生きているだけで存在している。目立たない日常を積み重ねることも、価値のある生き方の一つである。「何者かになる」という物語から少し距離を取ることで、かえって自分の輪郭がはっきりしたように感じている。