リーメンシュナイダ―に《嘆きの群像》(マイトブロン)という作品がある。

Maidbronn St. Afra Riemenschneideraltar 1510 Tilman2007 - Own work 

 中央に死せるキリスト、地面の布の上に横たわり、上半身を支えるのがアリマタヤのヨセフ。聖母マリアがキリストの左手を取り息子の方を見ている。その後ろがヨハネマリアの腕に自分の手を置き、見つめる視線は遠く。その他に6人の人物がいてそれぞれキリストの死を嘆いている。

Holger Simon がこの作品について書いているエッセイを読んで思ったこと。

※Die frühneuzeitlichen Beweinungsgruppen von Tilman Riemenschneider, in: Tilman Riemenschneider. Werke seiner Glaubenswelt, Bd. 2 (Ausstellungskatalog), Würzburg 2004, S. 85-105.

様々なリーメンシュナイダーの《嘆きの像》を挙げているが、ペルジーノの絵画との比較がおもしろい。彫刻と絵画とメディアは異なるが同じイメージで作られらた作品という。もちろん直接的間接的な影響関係の証明は難しいが。

ペルジーノ  (1448–1523) Lamentation over the Dead Christ 1495 パラティーノ美術館

どんなイメージかと言えば、キリストの肉体を大きく描き、あたかもその嘆きの場面が眼前で行われているような錯覚をもたらし、端の人物は鑑賞者への参加を呼び掛ける。歴史的な場面、物語として提示するのではなく、「祈念」像として表現する。鑑賞者の内面へ働きかける。その元はロヒール・ファン・デル・ウェイデンの作品。

 リーメンシュナイダーの作品を見て、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンやメムリンクを思い起こすのはやはり妥当だったのだと思う。鑑賞者の感情に訴えかけるような仕掛けがあるわけだ。14世紀のジョットと比較すると分かりやすい。

Giotto  (1266–1337)No. 36 Scenes from the Life of Christ: 20. Lamentation (The Mourning of Christ) Part of    Scrovegni Chapel

画像の中の人は嘆き悲しんでいるが、それを見ている鑑賞者にとっては物語、自分の内面に迫って来るものではない。  
15世紀ドイツは宗教的情熱が高揚し、巡礼も盛んになったという歴史的背景も指摘されている。以上概略。

 

これらの作品はキリスト教の範疇だが 近しい人、自分にとって大事な人、尊敬すべき人を亡くしたという感情は時代を超えるもので、心を動かされるのも当然のこと。