Riemenschneider in Rothenburg: Sacred Space and Civic Identity in the Late Medieval City, Katherine M. Boivin著,Pennsylvania State Univ Pr 2021/5/2 第2章 「聖ヤコブ教会の西端」続き。教会の東西の軸に対して垂直に走り,両端にアーチを含むトンネル通路をKatherine M. Boivinは“passage way”と呼ぶ。 パサージュの例として,オーバーヴェゼルのヴェルナー礼拝堂が挙げられる。オーバーヴェゼルはライン川の左岸(西側)、ライン渓谷中流上部にあり、近くの自治体はザンクト・ゴアーとバッハラッハ。

ヴェルナーカペレの画像。

old hospital chapel (1305) of, Oberwesel Germany

Sub-construction of the Old hospital chapel (1305) in en:Oberwesel, Rhineland-Palatinate Germany

2枚とも photo by HOWI  CC-BY-SA-4.0

 

 

この礼拝堂は,ある事件が起こった場所に建てられた。

 1287年に,Wernerという少年が、雇用主のユダヤ人に拷問され殺されたと言われる。その話がラインラント全体に広まってユダヤ人への暴力的迫害(ポグロム)につながった。最終的に少年の殺害場所への新しい巡礼が行われるようになった。礼拝堂は殺人が想定される場所の真上に設置され、通路の一対のドアは小さな地下の部屋(かつてユダヤ人の家に属していたと思われる)に通じていて,訪問する巡礼者がこの空間を循環できるようにしたという。

 ニクラウス・エゼラー・シニアは地理的にこの地とつながりがあり,このカペレを知っていて、ローテンブルクの聖ヤコブ教会西端の設計モデルとしたのではないかと著者は述べている。またローテンブルクで、顕著な反ユダヤ主義の時代に、血の聖遺物の再発見と,聖ヤコブ教会の西端の建設が始まったことも注目に値するという。14世紀の終わりに、神聖ローマ皇帝ヴィンツェル王は,シナゴーグなどユダヤ人コミュニティの場所を都市に「与え」、15世紀の初めに,ユダヤ人コミュニティは市の北部に強制移住させられた。金銭による保証はあったもののごくわずかなものだった。

 最終的に1520年に都市から追放されるまで、ローテンブルクのユダヤ人は、聖ヤコブ教会の北に住み、町の主要な市場に行くには,このトンネル通路を通過することになる。ここにはヴェルナーカペレのような暴力的な出来事はないが,聖血という遺物が,この通路を通る人々にも“脅迫”的な力を及ぼしたのではないか。

 

以下私見。当時のヨーロッパ各都市に反ユダヤ主義が起こり、ユダヤ人の都市追放もあちこちで行われた。そのような暗いネガティブな歴史も背負っているということを知ると,単にこの教会の天井が美しいとか,通路が不気味だというのはあまりにナイーブという気がする。

 第二次世界大戦後に、ユダヤ人組織やカトリック教会と、ラインラント州の政治行政組織などの間で交渉が行われ,1970年に拷問されているヴェルナーを表わしたレリーフは撤去された。(その撤去に反対するグループも存在した)。2008年に、礼拝堂は改名されMutter-Rosa-Kapelleとなった。ヴェルナーを表わした祭壇画も撤去され,祭壇画もRosa Fleschのものに。

 

 ところでリーメンシュナイダーの祭壇彫刻にもどれば,ユダを差別的に表しているとはまったく思えない。むしろ弱さを持つ同じ人間の一人としての造形だからこそ,いまでも心を打つのだと思っているのだが,この後の『Riemenschneider in Rothenburg』がどのように展開していくのか楽しみ。