Riemenschneider in Rothenburg: Sacred Space and Civic Identity in the Late Medieval City, Katherine M. Boivin著,Pennsylvania State Univ Pr 2021/5/21

第1章続き。前回は「1350年ごろまでに聖ヤコブ教会の東内陣は完成し,教会の次の主要なキャンペーンは,身廊に向けられることになる。」というところで終わり。いよいよ身廊の建設について。

 

 ここで,1373年に初めてローテンブルク市の評議会員として選出されたハインリヒ・トプラーという裕福なパトロンについて話が進行していく。トプラー家の繁栄は、もともと家畜の取引で少額の財産を築いたのが始めだという。彼はその後35年間もの間キャリアを形成していくのだが、1407年には、ローテンブルクで最も裕福な男性になったという。 

 この1373年と言う年はまさに聖ヤコブ教会の身廊の建設が始まった年である。教会の目立つ場所に銘板が設置され、その歴史的な年がはっきりと掲示された。身廊の最初の計画には、教会の北側と南側にそれぞれプライベートチャペルが含まれていた。はじめからトプラーは南側の目立つ方の礼拝堂を自分のものと主張していたとのこと。そして精力的に寄付を行う。1388年には妻のバーバラと共に,身廊の三つの礼拝堂に永遠のミサに関連付けられたChaplaincyを寄付した。これを何と訳すのかわからないが、この寄付により「市内の世俗的な:すなわち修道院に住まない、教区付きの」司祭の最初の地位を確立することとなった。つまり教区に対するドイツ騎士団司祭への挑戦。

 さらに三日後に,聖バーソロミューのFeastの日に聖レオンハルト祭壇で毎年徹夜のミサと朝のミサを捧げることに関する寄付。さらに身廊と内陣の交差部にあるマリア祭壇で歌われるミサ。この寄付には,トプラーの弟夫婦も加わった。(※ほぼ1世紀後市がリーメンシュナイダーにマリア祭壇を依頼したのは、この同じ祭壇のため) トプラー以外にも多くの多様な寄付があったし、遺言で教会に遺贈するケースもあった。さらにこれら多額の寄付をする人々は,寄付の執行者として、市を指名するようになった。こうした情勢のもと1389年にあらたな協約が結ばれた。この協約では,冒頭に解決すべき様々な紛争のリストと,詳細な物品の価格の設定、貨幣価値の制定、役職の報酬なども定められていた。聖ヤコブ教会だけなく、教区のすべての教会の管理・監督が市当局のものとなった。ドイツ騎士団がこの1398年の協約を受け入れたということは、市が教会の管理について進歩していることを示唆する。

 

と以上のような過程で『教会の究極のパトロン』としての市が確立していく。では具体的に身廊の建築にそのことがどのように反映されているのか?実のところ、この行政上の権力シフトにより、はっきりと建築様式の変化があったということは言えないようだ。しかし、細かく見れば,それはドイツ騎士団をモデルにしたものとは違う。素材も金色の砂岩から,灰色の石灰岩に。内陣の統一された一つの空間構成から、身廊は7つのベイの中央通路、外壁の規則性を破る4つのチャペル。そして,建築のモデルとしたのも,ドイッチュハウスの単一モデルではなく,関連する建物のグループ、特にニュルンベルクの聖セバルド教会と聖ローレンツ教会。その特徴となる写真をいくつか挙げよう。奥に見えるのが東内陣。 

Jakobskirche Rothenburg Germany - panoramio photo by Hiroki OgawaCC BY 3.0

上の写真の逆方向.西側オルガン方向を見たところ。

Rothenburg ob der Tauber, St. Jakob, Langhaus nach Westen

Tilman2007 - Own work CC BY-SA 4.0

身廊の柱pierの構成として、長方形の多角形のコアの周りに配置された4つの丸い支柱がある。北と南の支柱は途切れることなく上昇し、ヴォールティングシステムのリブに分岐する。アーケードの下にそびえる東と西の支柱は真っ直ぐ上向きに続いて壁に消えているように見えるが、アーケードのアーチはこれらから分岐している。これら聖ヤコブのpierの構成は、ニュルンベルグの聖セバルドの東内陣の西側の一対のpier(1361年に始まった)に明らかに似ている。

Chancel - St. Sebald church - Nuremberg, Germany public domain
四角い柱の周囲に丸い支柱が4本支え、そうのうちの南北の柱が上昇して天井のリブヴォールトにつながり,東西の支柱はアーチにつながっていくという構成は確かに共通。ただ聖ゼバルドでは一部に使われたものが、聖ヤコブでは身廊全体で繰り返されている。また、そのデザインもあり。

 pierに取り付けられた持ち送りの上やen-delit shaftsの上に載せられた彫像。※ en-delit shafts は添え柱のこと。

St.Jakob - Rothenburg ob der Tauber - Germany photo by © José Luiz Bernardes Ribeiro

CC BY-SA 4.0

さらに石工のマークはウルムの教会との関連を示し,そのほかにもストラスブールやレーゲンスブルクの教会とのつながりを示すものもあるという。つまり、ローテンブルクの身廊の設計者は、当時の最新流行の様式に後れをとってはいなかった!

 ところが、驚くべきことに,当時はホール教会モデルがよりファッショナブルなものだったのに対し,ローテンブルクでは伝統的なバシリカの高さを選んだことだという。

 ※『図説キリスト教会建築の歴史』(中島智章著,河出書房新社、2012、p55)によれば,「ドイツのゴシックの“ハレンキルフェ”(ホール・チャーチ)と言われる形式は、身廊と側廊を一つの大屋根で覆うものであり、身廊と側廊のヴォールトの高さがほとんど変わらない」とのこと。

ニュルンベルクの聖セバルト教会はホールチャーチ方式。

Bavière, Nuremberg Calips - Own work CC BY-SA 3.0

聖ヤコブ教会の外観

Rothenburg ob der Tauber, St. Jakob vom Rathausturm Tilman2007 - Own work

CC BY-SA 4.0

この画像で見られるように、身廊と側廊は別の屋根を架けている。ところで、もともとのバシリカ方式では,身廊の採光は身廊小屋組と側廊の屋根の間に設けられた高窓(クリアストーリー)によって行われる。ところでここでの,高窓のあるバシリカ身廊を建設するという決定は、ローテンブルクが,同時代のホールチャーチとほぼ同等の名声を示すことを可能にする重要な機会、つまりフライングバットレスを含める機会をもたらしたと思うということを Katherine M. Boivinは述べている。フライングバットレスは教会の構造を外側に表したもので、機能的のみならず、美的効果をも持つ。

 教会建築に詳しいわけではないが,ローテンブルクの聖ヤコブ教会の建築をデザインした人物が野心的に、様々な要素を幅広く取り入れようとしたことは分かる。

 ドイツ騎士団の単一モデルに従った内陣のデザインの違いとの一番大きな差はそこにあるのだろう。また,禁欲的とも言えそうなシンプルな構成の内陣に比べると、より装飾的な要素も多いように思う。そのあたりが、ローテンブルクの都市社会の世俗的な変化ということなのだろう。