Riemenschneider in Rothenburg: Sacred Space and Civic Identity in the Late Medieval City, Katherine M. Boivin著 の続き。第1章に関して。ローテンブルクの聖ヤコブ教会は,リーメンシュナイダーの傑作聖血祭壇が,制作当初の設置場所に今でもあることでも貴重である。その聖ヤコブ教会の建設について。とは言っても,主に建設の技術的な事ではなく、当時の市の行政権力がドイツ騎士団から市民 city councilにシフトしていく過程で,教会の建設,主にパトロネージュに関してどのような変化があったかという点について主に描かれている。

Rothenburg ob der Tauber, St. Jakob vom Rathausturm gesehen

photo by Tilman2007 - Own work CC BY-SA 3.0 Wikimediaから

この図は冒頭に挙げた著作にはないが,聖ヤコブ教会の建設の過程を追う上でわかりやすいと思い、挙げた。この写真は,教会を南から撮影したもの。右手が東側,左手が西側となる。この写真の屋根や壁の部分をよく見ると色や材質が微妙に異なっていることがわかる。右手の一番色が濃い部分が最も古く,East Choir (東内陣)と呼ばれる部分は,およそ1303年から1350年頃に建設されたものと見られている。中央やや明るい壁の色の部分が、Nave(身廊) 1373年から1422年ごろ建設。一番左手の屋根の色が変わっているところからが West

End 1453年から1471年に建設。全体でおよそ170年もかかっている大事業。リーメンシュナイダーの聖血祭壇はこのWest End にある。祭壇制作の契約書が残っているのではっきりとわかるが、契約書が交わされたのが1501年。祭壇が完成したのは1505年のことだった。


 ※ 聖ヤコブ教会の由来は古く,13世紀にはいくつかの礼拝堂を有するロマネスク様式の教会があり,その一つに『聖血礼拝堂』と呼ばれ,聖遺物『キリストの一滴の血』が納められた十字架があった。この古い教会は1373年に取り壊されたとある。(『リーメンシュナイダー その人と作品』杉田達雄著、水声社、2017年p67-68) また Katherine M. Boivinの著作では,「聖ヤコブの新しい身廊に道を譲るために古い教会を破壊するための公式の許可は1388年にヴュルツブルクの司教から来たが、実際の解体はそれ以前に始まった可能性がある。」とある。

 

170年間,教会を作り続けると、書いてしまえばそれだけだが,現代では,なかなか考えられないことだ。しかも細かなところをのぞけば統一性を保って建てられている。(※バルセロナのサグラダ・ファミリア教会の建設は長期間続いているが,例外中の例外であろう。)その長い間に市民―ブルジョワ,裕福な商人が中心か?―が行政の権力を握っていく過程について、14世紀当時のローテンブルク市の『contract』(契約? 協約?)から見ていく。

 

 重要なのは,1336年のContract 協約。それまでローテンブルクの市議会は一握りの貴族が行い、いわゆるブルジョワ市民は締め出されていたのだが,この時に裕福なブルジョワ市民が評議会に参加資格を得た。また評議会自体の規模も拡大された。

  Katherine M. Boivinによれば,1336年に新しく拡大された評議会は, 都市の世俗的な問題だけでなく、都市の主要な教会のスペースと管理の問題に権威を確立した。それまでにはドイツ騎士団との激しい政治的な対立があったという。

 その部分を引用すると 

「Simply put, the goal of these politics was for the civic government to gain administrative oversight over the affairs of Rothenburg’s religious institutions, particularly over urban church space. In large part the city succeeded in this goal over the course of the next century.」

—『Riemenschneider in Rothenburg: Sacred Space and Civic Identity in the Late Medieval City』Katherine M. Boivin著 https://a.co/6SZiLHm

 政治的な目標は「市民政府がローテンブルクの宗教施設の業務、特に都市の教会空間に対する行政監督を得ることだった。大部分は次の世紀の間に成功した。」(筆者抄訳)

 

ところで、最初に書いたように,「East Choir (東内陣)と呼ばれる部分は,およそ1303年から1350年頃に建設されたものと見られている。」 ということは,この政治闘争の真っただ中であったわけだが,実際の建築にそれがどのように反映されているのだろうか? それについては次の項にて。