阿部勤也『中世を旅する人―ヨーロッパ庶民生活点描』(平凡社,1978年)の続き。

「旅人は他国の森や林を通って未知の街道を歩かねばならない。それはさまざまな霊が支配する空間を通過することを意味する。」(p14) このような道の霊が集うところが十字路。「十字路は良き霊と悪しき霊の集まるところとして、いろいろな迷信の対象となっていた。」エルツ山の例が書かれている。「エルツ山地の慣習によれば、大晦日の真夜中に十字路に来て円を描いてその中に立ち、一定の呪文を唱えて死者の名を呼ぶと,死者が現れて新年に起る出来事を語ってくれるという。」(p16) 

 これで思い出したのが、アメリカのTVドラマ『スーパーナチュラル』。十字路で悪魔と取引をする場面が何度も!出てくる。 何度も魂を売れるのか? という疑問はさておき。このドラマは,聖書のヨハネ黙示録の引用もあり,ガブリエル,ミカエル,ルシファーと言った天使や堕天使,それに悪魔が多数出てくるのだ。元ネタがあるのだろうとは思っていたが,十字路の悪魔が,中世ヨーロッパにまで遡るものだったとは知らず。

 

 また面白いと思ったのは,この本の「道は生きている」という節。日本の水田や畑では、畔で区切られていて私有地が目に見えてわかるようになっていたが,ヨーロッパ中世農村ではそうではないという。つまり三圃農法では耕作地が毎年移動したために、村の中の道も,はっきり見えるものはわずかで季節ごと、または年ごとに新たに設立されるのだという。なので、耕作も決まった日時に共同で行わねばならない。「もし勝手に耕作を始めると,自分の持分地へ行くのに他人がすでに種を蒔いた土地の上に牛や馬を走らせることになってしまうからである。」(p19)

 耕作地の農道は常に目に見える形では存在していない,これは目からウロコだった。

 というのも、前にブリューゲルの作品について書いた時、実は疑問だったのだ,「道はどこ?」 そしてもう一つ,「なぜ村人総出で働いているのか?」 ということ。たとえばこの下の図。

日本の畑や田んぼによくあるあぜ道らしきものがみあたらない。ここに道はあるが,単に人が通るための道で,何らかの境界を示したものではなさそうだ。そして多くの村人たちが同じ畑で一緒に働いている理由が飲み込めなかった。

奥の干草を集めている人々がいる牧草畑。道がまったくないように見える。一方手前の人々は確かに道を歩いているが,これは農道ではなく,村へといたる道(街道と言っていいかどうかはわからない)。だからマリアの祠もある。危険から守ってもらうために。

 ブリューゲルの絵画を見ていただけでは分からなかった疑問が解けてすっきりとした。

 

 

 

十字路の悪魔の話はエピソード22。これがディーンの最初の悪魔との契約。ちなみにスーパーナチュラルはシーズン15まで放映されたが,シーズン5で終われば傑作だったのにと思っている。