リーメンシュナイダーについていろいろと調べている。中世のヨーロッパ,ドイツの基礎的知識が欠けているのでいろいろ読み漁っているところ。まずは家の本棚から,中世関係の物を探すと,ジョルジュ・デュビィの『ヨーロッパの中世』(池田健二・杉崎泰一郎訳 藤原書店 1995)があった。もともとは9回シリーズのテレビ番組。原著は1970年の初版。この訳書は1990年に出版されたフランス版から。カラー図版も多く読みやすいと思っていたのだが、再読すると、これはなかなか歯ごたえのある書物。

 冒頭に歴史家の役割は遺跡を、過去の人々の残した痕跡を収集し、過去の証言を検証し、批判することだが、「とりわけ貧しい人々の残した痕跡、日々の暮らしの痕跡は、浅く切れ切れである。」「それゆえ、紀元千年のヨーロッパを、われわれは想像しなければならない。」(p11)とあった。これはとても頷ける。ヴァザーリが生前の言動まで描いてくれたミケランジェロのような偉大な芸術家と異なり,貧しかったわけではないと思うが,リーメンシュナイダーのような一度完全に忘れ去られてしまった彫刻家に関する痕跡は辿るのが困難。それでも最近の研究でいろいろと明らかになってきたとは思うが。

 また起源1000年の頃についての記述だが「どこにでも人の動きがみられる。巡礼者や行商人,冒険者,出稼ぎ人,放浪者などである。金のない人々でも驚くほど活発に移動している。」(p12) 手仕事の職人たちーやがて芸術家と呼ばれるようになった人々もまたそうではないか。そのあたりで,図書館でも少し本を借りようかと思い,まずはジャック・ル・ゴフの『中世西欧文明』(桐村泰司訳、論想社2007年) ただし原著の版は1964年。生まれた年もジョルジュ・デュビィが1919年,ジャック・ル・ゴフが1924年と5年しか違わない。こちらは図版も少なく読みごたえがありそう。図書館に行くついでに,これも古い本だが,気軽に読めるかなと思い阿部勤也の『中世を旅する人々―ヨーロッパ庶民生活点描』(平凡社,1978年)も借りてみた。どれもこれも50年前後立っている書物だが,取り掛かりとして。

この本は興味ぶかい図版が多い。メ―リアンのレーゲンスブルクの地図や,同時代の木版画など多数。この本の第1章「道・川・橋」に「街道と村の道とは別世界にあり、異なった原理のもとにあった」「街道は何よりもまずできるだけ集落との接触をさけて、ひたすら遠くを目指す道であった」(P11)とある。これは,現代のドイツでもそのままであろうと思った。というのも,以前ドイツを車で旅した時に,運転は左ハンドルに慣れた人がして,多少ドイツ語を読める私が地図を見ながらナビゲート役をした。(その当時はまだ車のナビゲーションシステムは無かった) その時に思ったのだが,ドイツの車用の地図はとても分かりやすいのである。阿部氏がいうように,遠くへ行く街道と集落を通る道がはっきりと分かれていた。そしてある町に寄りたいときにも,間違えようもなくはっきりとした標識が出ている。日本の道路よりよほど読みやすいと思った覚えがある。ドイツ語の地名さえ間違わなければ。観光で目指すような城や歴史的な建物も一目でわかるような統一されたマークがあった。

 

 さてここからが本題。「フランク族の渡河地という意味のフランクフルトは、カロリング時代にはニーダーザクセン、チューリンゲンへの道への出発点となり、900年ころにはすでにキエフの商人が訪れていた。」(P12)とある。フランクフルトと言う名前はもちろん知っていたが,フランク族が河を渡る土地という意味だったことは初めて知った。これを読んだ次の日,東京へ行く電車の中でデューラーの『ネーデルラント旅日記』(前川誠郎訳,岩波文庫2007年)を読んだ。これはかなり前に買ったが読んでいなかった。薄い本だし,持ち運びしやすくて良いかと。読もうと思ったのも、15,6世紀の旅というものはどんなものだろうかと思ったので。

 デューラーは「1520年夏,途切れた年金の支給を新皇帝カロルス五世(原文のまま)に誓願すべく、妻と侍女を伴い遠くネーデルラント(今のベルギー地方)への長旅に出かけた。」 (表紙の説明文から)

 デューラーは7/12にニュルンベルクを出発してバンベルクまで陸を行った。バンベルクからフランクフルトまでマイン川を船を行く契約を船頭と結ぶ。フランクフルトへ着いたのは7/21。ここで泊まり,荷物ともども(デューラーは自分の作品・版画等を大量に持って行った)フランクフルトからマインツへ運ぶ契約をしている。彼はネーデルラントを目指しているのだから、マイン川を渡るわけではないが,この地名が図らずも出てきたことは偶然? 

 7/22にフランクフルトを出発しその日のうちにマインツに到着。マインツでケルンまで荷物ともども運ぶようにまた契約。7/23日にライン川でマインツからケルンまで行き,7/25日にケルン到着。ケルンからアントウェルペンまでは馬車で行った。

 ここで不思議に思ったのだが,なぜ船頭との契約は細かく分かれるのだろうか? マインツからケルンのところは分かる。ケルン籍の船が往来するのだろうし,ライン川に入るのだから。ところが,バンベルクからフランクフルト・アム・マインまでの契約を最初にし、その後に1日で到着する短い距離のマインツまでなぜ新たに契約を結ぶのだろうか?バンベルクからマインツまでの契約の方が簡単ではないかと思うのだが。その事情をデューラーは書いていないが、行政区分上の縛りとか船の航行に関する規則などがあったのかどうか? 興味が湧く。 交通の要衝というのは、そのあたりにも関係しているのか? などいろいろ疑問が湧いてきた。

 肝心の旅日記について。まず川の旅では、頻繁に通行税のようなものを払っている。かなり煩雑。払う額も決して安くはない。行く先々で有力者に自作の版画をプレゼントしたり,肖像画を描いたり,また見返りに?かなり多くの葡萄酒のプレゼントをもらう。ときどき妻と侍女を置いて自分だけ食事に行ったり、小旅行に行ったり。高名な画家ということもあり行く先々で歓迎され接待され、のみならずまたその旅で知り合いになったであろう人間と何度も食事をする。意気投合? こうしてみるとデューラーは、あの画風から想像されるのとは少し違い、意外にも人好きのする社交的な人間だったようだ。それから様々な支払いを事細かに書き記すことからも分かるように,経済的にとてもしっかりとしていて,いわば“ケチ”。まだ前半しか読んでいないのだが,生き生きとした人間像が浮かんできて、これは面白い。

  アルブレヒト・デューラー  (1471–1528) Porträt des Jobst Plankfelt  1520年 シュテーデル美術館  

これはヨープスト・ブランクフェルトの肖像.アントウェルぺンで《天使城館》という宿屋を営んでいた。その返礼として,ブランクフェルトは白珊瑚の枝をプレゼント。デューラーはブランクフェルド夫婦の油彩画を作った模様。これはどこかに存在するのだろうか?