国立西洋美術館で開催中の「西洋版画を視る―エッチング:線を極める,線を超える」を見た。一番最初にあったのは「自作エッチング《ヤン・シックス》を見るレンブラント」という素描。自作エッチング「ヤン・シックス」を見るレンブラント(ニコラース・ピーネマンの油彩画による)アドルフ・ムイユロン、1852年の作。19世紀半ばフランスではレンブラントのエッチングがとても評価されて人気があり,このような作品もつくられたとのこと。

Adolphe Mouilleron (?) Paris, 1820 - Paris, 1881 1852ca
Rembrandt Studying a Pull of His Etching “Portrait of Jan Six” (After Nicolaas Pieneman)

これはみていて何とも不思議な気分に。これから展覧会で見る《ヤン・シックス》を見ているレンブラントを描いた版画作品を見ている私? またこんな作品まで(※かなり美化されたレンブラント!) 作られるほど人気だったとは驚きでもある。

  エッチングの制作方法のビデオと実際の銅板や用具等の展示があった。木版・エングレーヴィング・エッチング・ドライポイントの線の違いを拡大レンズを使って実際に自分で見ることもでき,その違いも分かったような気になった。

 デューラーの見事なメランヒトン像。ただしこれはエングレーヴィング。デューラーは3年ほどしかエッチングの制作は行わず、どうもその出来には満足していなかったらしいとのこと。《ゲッセマネの祈り》が展示されていたが,確かにデューラーの線には向いていなかったらしくあまり良い出来とも思われぬ。そして最近ブログでも書いたブリューゲルの下絵による版画が二枚あった。(これについては後程書く)

 

 で,いよいよレンブラントの作品二枚。一枚目は《蠟燭の明かりのもとで机に向かう書生》

これについては以前ブログに書いたのだが、実際に見たのは初めて。

 

衝撃を受けた。

 

暗い作品だというのは図録を見て知っていたのだが,本当にこんなに暗いとは! この蝋燭の明かり一つでやっとみえるという男の姿,そのまま。今パソコンのディスプレイ上で見えるような、明るさではないのだ。しばらく目を凝らしてやっとどこに顔があるのかわかる程度。どこまで暗くして作品として成立し得るかを実験していたかのようだ。この蝋燭が実に効果的,文字通り希望の光、蝋燭に救われる感じだ。

 

そして二枚目は,《ヤン・シックスの肖像》、この作品についても以前書いたのだが。

 

 

こちらを見たときの衝撃はさらに強かった。この作品も実際に見た感じはもっと暗かった。左端の壁に掛かったものがカーテンがかかった絵画であるということが、やっとわかるほど。それもあらかじめそこにある事を知っていたからであって、何も知らなかったら,わからなかっただろう。帽子とか剣の金属的質感とか,光を受けたヤンの顔の様子とか,これが本当にニードルで彫った線なのだろうか? 展覧会タイトルの『線を超える』とはこのことか。エッチングは、簡単に言えば銅板に彫ったニードルの線が元、ところがこの作品を見て,とても線で描かれているとは思えなかった。ビロードの手触りという形容があるが、どうやってこんな表現ができたのだろうか。「レンブラント 光の探求/闇の誘惑」,2011国立西洋美術館 p41-60)では「この版画はすでに18世紀に伝説的存在となっており、1751年、ジェルサンは『今日もっとも希少性があり、かつ、レンブラントが産んだ最も高価なものの一つである』と激賞している。」という文章があるが、その意味が初めて腑に落ちた。版画も実物みないと分からないものだね。

 

 このほかにも、ピラネージの『牢獄』もあり,ゴヤの《ロス・カプリーチョス》もありそれぞれ素晴らしい作品で簡単にあれが良いとか悪いとか比較できないような気もするが,やはり何度かみなおしてレンブラントはちょっと次元が違うなと思った。出来・不出来とか、上手い・下手とかではなくて,彼は違うものを見ていた。ニードルで刻むのがエッチングのはずなのに,できるだけ線ではない表現を極めようとしていたように見える。その不可能への追求という意志はどこからくるのか。しばらく後には、また違う表現に挑んでいったようだが。

 この二点の作品から受けた衝撃は,図版を見ては決して感じられなかったもの。幾たびも書いたが,レンブラントはやはり実物をみなくては!