ケネス・クラークの「風景画論」(佐々木英也訳,ちくま学芸文庫,2007年)
第2章 事実の風景 より。

「ある一つの例において大気の表現は完成の域に達し,その絶対的な正確さゆえに今日まで何人の凌駕も許さない。フェルメールの《デルフトの風景》である。このユニークな作品は,絵画のうちで最もカラー写真に近いものに違いない。」(p98)

  フェルメールについて,アルパースが引用した部分がこれである。

  以前のブログ参照。 フェルメール

《デルフトの風景》Johannes Vermeer (1632−1675)1660から1661ごろ

 96.5 cm ×117.5 cm  マウリッツハイス美術館

クラークは一見すると,フェルメールの正確な色調の感覚と,全ての上に平等な視線を投げかけていることが,ふだんは絵に無関心な人に人気を博す理由だと言う。いかにも皮肉な言い方だ。

 しかし,続けてこの絵は研究していけばいくほど技巧的に見え、構成方式も一貫性を持つと言う。「17世紀も末になると光の絵画はもはや愛の行為であることをやめ・詐術(トリック)となった。〈カメラ・ルシダ〉は人を驚かせるどころか,,画家がふだん使う携行品となった。」「彼の最近の創作品の中に、機械的宇宙観がある。」「風景画はいくつかの制作方式にしたがって単なる機械的産物となり果て,事実が地誌の中だけに余命をつなぐありさまとなったのも当然であろう。」(p99)

 

 クラークの言い方は皮肉めいて含みもあるのだが,ここを読む限り、カラー写真という形容は,かなり手厳しいものだ。ここに〈自然〉という言葉はないが,この後に事実の風景が自然主義的風景と同じ意味で使われるところもあるので、そのようにとらえるとすると、自然を事実そのままに写す,感情もなく、目に映ったものを、カメラ・オブスクーラやカメラ・ルシダを使ってなどの機械の助けを借りて正確に再現する。その頂点にあるのがこの《デルフトの風景》。

 

 私はこの絵を実際に見たことがないので図版に頼るしかない。今までクラークの著作に従ってみたきたオランダの風景画のが形の作品と比較してみる。

 ヤン・ファン・ホーイェン(1596ー1656)があげられる。技巧的風景形式を継承した人。雲の景観のあらゆるニュアンスを伝える。川に浮かんだ船も描いていた。

ヘルクーレス・セーヘルス(1590−1638)の平坦なパノラマ的景観。ほぼフェルメールと同時代のファン・デ・カペレ,ファン・デ・フェルデ,カイプらの空や海の描写,その場にいる大小の動物や人物。サーンレダム,ベルックヘイデ,ファン・デル・ヘイデンらの透視図法や都市風景,教会の内部の描写。それらのほぼ全てから

いいとこ取りをしたのがフェルメールだろうか。そして誰よりも優れていた色彩の感覚。正確に自然を再現したかにみえて,目に快く構成してあることも同じく。この絵が特別とは思わないが,一連の流れの頂点に位置するだろうことはなんとなくわかる。後は,実際に作品を見てから。いつのことになるかわからないが。