エリカ・ラングミュアの「物語画」(高橋裕子訳,八坂書房,2005年)から。

古典古代のイストリアでなく,同時代の歴史を取り上げた例として,ダヴィッドやゴヤがいるが,1867年にマネが「マクシミリアン皇帝の処刑」を描く。当時の状況だが,フランスはナポレオン三世の政府の時代。マネは政府に反対の立場を取っていたという。

 オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの弟フェルディナント・マクシミリアンは,1864年にフランス軍の後押しによってメキシコ皇帝となった。しかしアメリカ南北戦争の北軍の勝利やヨーロッパにおけるドイツの脅威等もあって,フランス軍は撤退してしまう。マクシミリアンは退位した元メキシコ大統領と共和国政府を支持する勢力に捕らえられて,側近の二人の将軍とともに銃殺される。(以上の説明はナショナルギャラリーのHPからhttps://www.nationalgallery.org.uk/paintings/edouard-manet-the-execution-of-maximilian )

 マネはこの主題のもとに大きな絵を3枚製作。ボストンにある第1作は未完のまま。第2作は完成したが,画家自身によって切断され,彼の死後さらに損なわれた。エドガー・ドガが残った断片を集め,ナショナルギャラリーが購入,1970年代に1枚のキャンバスに貼り付けたという。(ラングミュアの説明とは少し異なるがHPに従った。)

《マクシミリアンの処刑》 エドゥアール・マネ 1867-8年頃 193cm x 284 cm 

完成した第3作はフランス政府によって展覧会への出品を拒まれた。現在マンハイムにある。※結局3作ともフランス国外に去ったと言うことか。3作も制作すると言う事はかなりこの作品に力を入れていたのだろうに。

《マクシミリアンの処刑》 エドゥアール・マネ 1867-8年頃 252 cm × 305 cm

Kunsthalle Mannheim (1910年に取得)

完成作とロンドンの作には背景に違いはあるが,ほぼ同じ構図。左側真ん中のソンブレロを被っているのがマクシミリアン。二人の将軍の間に立っている。ラングミュアによれば,検閲に引っかかた理由は,この作品がナポレオン三世の外交政策を暗に批判したからだけでなく,ルネサンスの「イストリア」の伝統的レトリックを拒絶しているからだという。「くまなく光を浴びた無感動な日常性は,三枚の絵のすべてに共通する特色で,それ自体が,軍事的な日常性や帝国主義的野望に対する冷ややかな軽蔑の表現となっている。」(p109)

 「魂の動き」を表すという方向とは正反対に描くことでマネは批判したのだろうか。ただロンドンの絵にはマクシミリアンの左手だけが残されている。側近の将軍とぐっと握りしめた手が「出来事の全体に対する痛切なコメントであるように見える。」(p111)黒服を着た皇帝の親指の力の入り具合!

 

 

さてラングミュアの叙述はここまでだが,いくつか付け加えたい。この絵の構図だが,どう見ても兵士との距離が近すぎる。

当時の写真を見ると,銃殺の状況は,三人が集まっているのではなく,一人ずつ,離れて立たされている。一番右側に立たされているのがマクシミリアンである。そして銃を構える兵士との距離も,もちろん適切に離れている。

マネは実際にメキシコで処刑場面を見たわけではないだろう。この写真を見たかどうかは知らないけれど,それにしてもなぜマネがこのように事実とは異なる不自然な配置で描いたのか?

 まずラングミュアもゴヤに倣ってと言うように軽く触れているが,この絵は,ゴヤの《マドリード、1808年5月3日》を意識して描かれているのは確か。

フランシスコ・デ・ゴヤ, 1814年 266 cm × 345 cm プラド美術館,マドリード

 左側に銃殺される側,右側に銃を構えた兵士という構図は同じであるが,ゴヤの絵は無表情ではなく,かなり表情がある絵である。しかしマネのロンドンの絵の青い背景のもと,無表情で銃を構える兵士達にもぞっとするものがある。

 マンハイムのHPを見ていたら,

《内戦》と言うタイトルのマネのリトグラフがあって驚いた。華やかなブルジョワの生活をえがいた画家と言うイメージだったのに,報道写真のような生々しい場面。1871年といえばパリ・コミューンの時である。マネとドガがその現場を見ていたという証言もあるらしい。このような生の場面を油彩にすることはなかったのだろうが,マネの振幅の広さを感じる。

1871 内戦 40.10cm x  50.90 cm