スキファノイアの4月のフレスコ画,これもコッサの作。金牛宮とウェヌスが支配している。

これが全体図である。まずウェヌスについて。白鳥が引く乗り物で川を渡り,乗り物のカーテンは風に翻っている。

ウェヌスについては,12世紀のアルべりクスによって著されたとする『神像小論』のテキストに書かれたものとほぼ一致すると,ヴァールブルクは言う。

 “ウェヌスは,きわめて美しく,裸体で,海で泳いでいる女性として描かれる。右手で貝を持ち,彼女の頭は白色と赤色のバラの花冠で飾られている。そして,鳩が周りを飛び回ってつき従っている。粗野で醜悪なウルカヌスが彼女と結婚し,彼女の支配下にある。彼女の前には,三美神と呼ばれる三人の小さな裸体の乙女がいて,そのうちの二人は顔をわれわれの方に向け,三番目の者は背中を見せている。ウェヌスの息子であり,翼をもった盲目のクピドも彼女の側にいて,矢と弓でアポロンを打つが,母のもとに逃げてきて,ウェヌスは左手をクピドに差し出す ”(ヴァールブルク著作集5,p72)

この文章を引用して, コッサは,純粋に古代の再構築へ意志が働いていると言うのだが…。この叙述はボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』や『プリマヴェーラ』にならあてはまると思うが,このフレスコ画においてはウェヌスはそもそも裸体ではないし,海で泳いでもいない。クピドを探すのに苦労したが,なんとウェヌスの茶色の帯に小さく描かれているのである。確かに三美神はいるし,白鳥が引く船と言うのも神話じみているが,そうと言われなければ,この二人は当時の生身の人物と見られてもおかしくないのではないだろうか。そう思うほど,生き生きと描かれていると言っても良い。またコッサは惑星の子どもたち」=『ウェヌスの子どもたち』の伝統にも霊感を得ているという。「惑星の子どもたち」というテーマは15世紀から盛んになったもので,ある惑星神とともにその影響下にある人を描くというもので,この場合は愛の庭と音楽家たちがそれにあたる。次に書かれていることが,私は重要だと思うのだが,「コッサの強い現実感覚は,文献上の干渉という非芸術的要素を凌駕しています。」「個性の弱い画家は興趣のわかないプログラムととりくんでそれを生き生きとしたものにすることに失敗しています。」(p78) その悪い例として挙げられるのが,コズメー・トゥーラが描いた7月のフレスコ画である(それについては項を改めて書く)。

 「図解的背景を忘れさせてくれる」「コッサの生き生きとした人物像の世界」とヴァールブルクが言うように,著作どおりに描いたとしても面白くもなんともないのである。文献に沿って同じように描いたとしても,画家の資質によって違ってしまうと言う事をヴァールブルクはよくわかっていたのだなと思う。

 というわけで4月には本当に生き生きとした動物や子どもや人の動きが描かれている。

 

愛の庭と音楽家たち 上段右

抱き合う恋人の手は,スカートの奥へ,そしてそれを見る人々の目付きが!

 

デカン 中段 左

この後姿の子どものむっちりとした足,その辺にいそうだ。

 

 下段の一番上

この人たちは何をそんなに走っているのか?

 

馬の真下

逆さになっている鳥 どこかに足をかけているのか?

 

下段の右下の犬。

という具合に見ていて飽きない。