次々とイギリスの植民地化されていったインド。
中にはインドに抵抗し戦い、「インドのジャンヌ=ダルク」と呼ばれ女性もいました。
ジャーンシー王国の王妃、ジャーンシー=バーイー、23歳の若さでした。
彼女の故郷も結婚先の王国もイギリスに支配され、彼女は反乱軍の戦闘に立ちました。
敵からも讃えられるほど美しく勇敢でした。
この戦いで彼女は命を落とします。
イギリスに雇われていたインド人の傭兵・シパーヒーはヒンドゥー教徒・イスラム教徒両方おり、能力も高く優秀な人たちでした。
このシパーヒーたちが反乱を起こし、インド全土で大混乱を起こしました。
そのきっかけは1857年、彼らに配られたエンフィールド銃という新式の銃でした。
この銃では弾と火薬をセットにし、一方ずつ包まれており、装填時に歯で噛み破る必要がありました。
当時の銃は銃口から弾と火薬をこめる前装式(先ごめ式)でした。
そして、その中に牛と豚の脂がしけるのを防ぐために使われていました。
ヒンドゥー教徒にとって「牛」とは神の乗り物、神聖なもの
イスラム教徒にとって「豚」とは不浄なもの
それを口にしろというのですから、イギリスに雇われていた彼らにも宗教的禁忌であり、強い抵抗感を生じたのです。
インド各地で起きていたイギリスへの反乱が、彼らが年金暮らしで象徴的存在であったムガル皇帝を反乱のシンボルに担ぎ出したことで「全インド反乱」となりました。
民族的反抗運動となったのです。
この1857年の大反乱が「シパーヒーの反乱」と言います。
「セポイの反乱」の方が通じやすいかもしれませんね。
インド北部の都市カーンプルで500人以上ものイギリス人が殺害されると、援軍を送られ(この時代あちこちで戦争をしていたイギリスは、なかなか兵を回ることに苦慮していました)増兵したイギリスは、報復としてインド各地で放火・無差別大虐殺が行われました。
捕まえたインド人を大砲の先に縛り、それを吹き飛ばすという処刑方法を楽しんでいたのです。
イギリスはこの鎮圧のためインド人を大虐殺し、ムガル帝国を滅ぼしました。
ムガル皇帝バハードゥル=シャー2世は退位させられ、1862年、ビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)に流刑となり、生涯を終えました。
1858年1月、これまでのイギリスの東インド会社当地ではなく、イギリスがインドを直接統治するようになります。
それから約20年を経た1877年、イギリス領インドは「インド帝国」となり、ビクトリア女王が初代皇帝となります。
イギリスはケシ(アヘンを作るための花)、綿花、茶などの商品作物をインド農民に強制栽培させました。
このインドのイギリスによる植民地統治は、マハトマ=ガンディー登場の1947年まで続きました。