第2次世界大戦後も、中東では多くの戦禍を被りました。一体、いつになったらこの辺りの方たちは心穏やかな日々を得られるのだろうと胸が痛みます。
私が高校・大学生の時に読んだマンガで「月下の一群」というものがありました。その中にアラビア語の講師と主人公の女子大生がアラビアの遊牧民やムジャヒディンの写真展に行くくだりがありました。
昨年末に引っ越しをした後書棚を整理し、先日手に取ったそのマンガは、キャンパスラブを描くものであり、ほほえましい内容で、登場人物に感情移入の仕方も全く変わっていませんでしたが、はっと気づかされたのが、私のイスラム観の変貌でした。
まさか21世紀になり、こんなイスラム過激派が横行し、テロが頻発するなんて、高校生の私はゆめゆめ思ってもみなかったのです。
初めて読んだ高校生の頃には、宗派の対立、イラスエルとパレスティナを始めとする周囲のアラブ諸国との争いも少しずつ収束に向かうと信じていました。
それが大きく変容していったのは、皮肉にも東西冷戦の終結という平和を享受してからでした。
21世紀を迎える前(20年くらい前に)に、サミュエル・ハンチントン教授の「文明の衝突」を読んではおりましたが、
「まさしくにそうなったな」
と。
と。
しかし、30年前の高校・大学生の頃の私は全く予想できずにいた世界でありました。
なんか、せつなくなりました
文明の衝突
Amazon |
さて、1990年に起こった湾岸戦争の10年前、イランとイラクによる戦争がありました。こちらを第一次湾岸戦争(1980~88年)と呼びます。
隣国同士ならでは利権争い(シャトル・アラブ川の領有権)
イランのシーア派対イラクのスンナ派
イランのペルシア人・ペルシア文化圏対イラクのアラブ人・アラビア語文化圏
それぞれのバックグラウンドについた大国同士の争い
と非常に際立った対立を見せた戦いでありました。
それ以前の両国の歴史も述べたいところですが・・・(イランについては別ブログを設けます)
イランには王朝(帝政)(パフレヴィー朝 1925~1979年)がありました。
国王(皇帝)パフラヴィー2世(モハンマド・レザー・パフラヴィー、日本ではパーレビ国王として呼ばれることが多かったですね。)では西欧近代化を進めていました。
国有工場の払い下げ、女性の参政権を認める、土地改革などで、これらは「白色革命」と呼ばれました。
アメリカはこれを支持していました。
ところが、過度の権力集中や貧困層からの不満が起こり、亡命していたホメイニ師が帰国。
イラン革命が起こり、国王パフラヴィー2世は失脚。
ホメイニ師はイスラム原理主義のシーア派の法学者であり、最高指導者(国家元首)にもなりました。
東西冷戦下でしたので、「アメリカが肩持つならば」と、イラクにはソ連という後ろ盾がついていました。
ところが、これ以上イスラム原理主義が広まるのを恐れたアメリカは、イラクのフセインを支持するようになります。
東西冷戦下でしたので、「アメリカが肩持つならば」と、イラクにはソ連という後ろ盾がついていました。
ところが、これ以上イスラム原理主義が広まるのを恐れたアメリカは、イラクのフセインを支持するようになります。
イラクはイランが革命で混乱しているうちに、イラン最大の油田フゼスタン地域も狙い、攻撃を開始します。イラクは当初猛攻撃で、地雷は置くは、毒ガスは使うわ
ここで突如、イスラエルがイラクを攻撃します。
実はイラクは1960年代から核開発を目論んでおりました。
当時はソ連のチェックもあり、表向きは「原子炉発電研究中」ということにしていました。
が、ここに来て、イラクはフランスに安定した石油供給をちらつかせ、フランスから大量に武器を購入して「核開発援助」を取り付けてしまったのです。(フランスは原子力大国です。)
イラクが核武装したら周囲の国はたまったものではありません。そこでイスラエルは1981年、ウラン燃料が補填される前に、イラクの原子炉を攻撃したのです。
結局、このイランとイラクの戦いは思っていた以上に長引き、1988年に停戦しました。
そして、イラクのクウェート侵攻、その後の多国籍軍によるイラク攻撃(第二次湾岸戦争)。
さらに、「イラクは大量破壊兵器の保有を過去公言し、かつ現在もその保有の可能性が世界の安保環境を脅かしている 」を主たる理由で始まった2003年アメリカ・多国籍軍によるイラク戦争。
イラクの大量破壊兵器・生物兵器などは、そもそも第一次湾岸戦争でアメリカも認め、協力したものだったのです。