ある日、びょうきのおばあさんのお見まいに出かけた赤ずきんは、森の中でオオカミに出会い、すっかりだまされて、お母さんに「してはいけないよ」と言われていた寄り道をしてしまいます。そのすきに早回りしたオオカミはおばあさんを食べ、おくれてとう着した赤ずきんも待ち構えて食べてしまいました。しかし、お腹がいっぱいになったオオカミが眠っているところにりょう師が通りかかり、りょう師がオオカミのお腹を裂いて、赤ずきんとおばあさんを救いました。

 

 読み終えてすぐのうちは、「ああ、二人が無事で本当に良かったなあ」と思いました。「オオカミは人をだまして食べるなんて悪いやつだ」とも思いました。

 

しかしだんだんと考えをあらためました。オオカミもごはんを食べなければ生きていけません。オオカミを一方的に責めることはできない気がしてきました。でも、やっぱり赤ずきんとおばあさんも生きていたかったはずなので、あるものが生きるために他人をぎせいにすることを、仕方ないとなっとくするのもむずかしく思います。どちらかの味方をしたら、もう一方が辛い思いをします。

 

いのちについて考えるのは私にはむずかしくて、答えが見つかりません。代わりに、二つの意見が対立する場合についてじっくり考えてみました。おやつを食べたい子が二人いるのに、おやつが一つだったら、話し合いをするか、じゃんけんなど、この決め方ならお互い結果に納得するというような方法で解決するのがいいと思います。勝手に他の人がどちらかの味方をしてしまうのは良くありません。大人がけんかをするときはさい判を使いますが、さい判というのも、なるべく公平なルールのもとで話し合おうというお互いの気持ちが合わさってしてやっているのだと思います。

 

けんかを見ている人が一番やってはいけないのは、片方の話だけをう飲みにして、勝手にもう片方を悪者だと言ってしまうことではないかと思いました。私はどうしても赤ずきんがかわいそう、という気持ちになってしまいますが、感情を省いて事実だけを見ようとすると、決してオオカミは悪者ではないのです。

 

私はふと考えました。仲良しの友だちと別の子がもめているとき、何があったのかをきかないまま友だちの味方をしてしまったことを思い出しました。もちろんそれが弱い者いじめだったら守らなければなりませんが、あの時は、何か二人とも真剣に考えた内容が対立していたようでした。あの時は、友だちだからぜったい助けなきゃと思いましたし、自分の行動は正しかったと自信を持っていました。しかし私は今なら分かります。二人の話をちゃんと聞いてあげればよかったのです。私は結局オオカミと赤ずきんがお互いの命のためにどうすればよかったのかは分かりませんし、友だちのトラブルも、話を聞いたところで私には解決できないことだったかもしれません。しかし、両方の意見を聞かないよりも、聞いた方がいいはずです。

 

私は「赤ずきん」を読んで、一方的な見方で物事を判断してはいけないのだと気づきました。全てのことを公平に解決するのはむずかしいのかもしれませんが、これからは、両方の意見を中立の立場で聞くことを心がけたいと思います。