自らが自らに立ち返る③ | PADME

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人生を豊かに

欲とか執着を捨てる

 

 日常生活において、物価高騰やエネルギー価格の上昇など、必要な費用は高いままで推移しています。社会環境が不安定になり、日常の生活が脅かされやすい中、少なくない人が心の居場所を失った状態でいます。社会的な居場所が限定されると、友人や知人、職場の同僚とのコミュニケーションも希薄になります。今からどうしたらいいのか不安がある、或いは自分が納得のいく人生と出会うには、気持ちの獲得が大切です。その為に自らが自らに立ち返る事です。

 

 心の持ち様として、自らのはからいを捨てる事、雑念を追わない事、その事によって私たちの自己は自己となります。つまり欲や執着といった物を捨てる訳です。執着や欲の元は何から起こるかというと、それは分別(ふんべつ)です。例えば般若経というお経には、無分別という言葉が無数に出て来ます。一般社会であの人は無分別な人だと言うと、あまり良い意味で言いません。反対にあの人は中々分別のある人だと言うと、常識を備えた人の様に受け止めます。

 

 ひとかどの見識を持ったとかですね。ところがそれは丸で反対です。愛着とか執着とか欲の元になるのが分別です。分別というのは、あれこれ自分のはからいごとを持ち込む事なのです。分別には必ず、私、我という心が付いて回ります。他に対して自我を立てる、その上で分別をする。我と他という関係の中で、常に私たちは分別を繰り返し、分別の上で色々な捉われの心を起こしたり、愛着を起こしたりして、その事によって本来の自己が振り回されて行きます。

 

 その振り回されている分別を離れる事が大切なのです。私たちは常に何か、何事かを求め続けてやまない。しかし求める事が常に成就するかと言えば、必ずしも報われる訳ではありません。求める事によって葛藤が生じる事が多いと思います。願う事が叶わない。その事で挫折したり、自分の殻に閉じこもったり、社会からスポイルされたりして、時には心を病む事になったりします。そういう求め続ける生き方に対して、仏教は多くを求めない生き方を推奨します。

 

 時にはそういう生き方を体験して頂きたいと思うのです。本来の自己とはどこにあるかと言うと、何時もここにあります。今この瞬間が、そうなのです。