自らが自らに立ち返る① | PADME

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人生を豊かに

はからいを超えた世界

 

 新年度を迎え、現状を変えようと心に決めながらも、新たな環境に一歩踏み出すのが不安という人もいるでしょう。直ぐに役立つかどうかはそれぞれの状況や悩み次第ですが、私は私の考えや体験をもとに、独自の取り組みとしてこの文章を書いています。次にどうしたいのか、自らの立ち位置を決めていく一歩になればと思います。その為今回は自らが自らに立ち返るをテーマに、3つのChapterに分けて話を進めます。先ずは自分のはからいを超えた世界です。

 

 人は皆、色々な縁によって、この世に誕生しました。ただその誕生した時の自己というものを知っている人はいません。何年何月何日に私は生まれたと聞かされているだけで、自ら生まれた事を知っている人はいないのです。つまり御縁によって、自分のはからいを離れた所で私たちは生まれて来ました。例えば病気になる時も、なりたいと思っている人もいなければ、なりたくないと思ってもなる訳です。つまりそういう事も自分のはからいを超えている訳です。

 

 私たちは色々な因と縁によって、生きていると共に生かされている、その在り様を縁起と言います。吐いた息が次の瞬間吸えなければ私たちは死ぬ訳です。臨終の様子を見守っていて、吸った息を最後に吐く事はなく、それが死である訳です。私たちの命は刹那無常、はからいを超えた縁起の世界なのです。良く縁起がいいとか、悪いとか言いますが、私ごとを差し挟めない縁起の世界に対して、自分にとって都合がいいか悪いかという事を思っているだけなのです。

 

 今日あなたと会っていても、明日を迎えられるかどうか、私(筆者)の方が先におさらばするかもしれないし、あなたが明日という日を迎えられない可能性も常にある訳です。明日ばかりではない。1時間後、30分後かもしれない。先程私たちは生まれを知らないと言いました。昨日の自分というもの、1時間前の自分というものはもうここにない。また1時間後の自分もここに存在していないし、明日の自己も知りません。今私たちがあるのはここにいる私です。

 

 過去は記憶の中にしかないし、未来は想像の中にしかない。私たちが「時」というものを考えると、この「時」は、今をおいて他にはないという事です。

 

*刹那無常(せつなむじょう)…刹那、刹那に私たちは生き死にを繰り返していること

 

萬善寺