「愛なき世界(上)」三浦しをん 中公文庫

表紙の絵も美しいです。

 

恋愛・生殖に興味ゼロの院生・本村紗英に、洋食屋の見習い・藤丸陽太が恋をした。殺し屋のような教授、サボテン一筋の後輩男子に囲まれ、本村は愛しい葉っぱの研究に没頭中。実験や芋掘り会に潜り込む藤丸の想いは花開くのか。「知りたい」という情熱を宿す人々の愛とさびしさが心を射る長編。
 

=1章=

p19

切った野菜を明かりに透かして、すごいなあと見入ってしまうことがある。どれもこれも、だれかが設計図に基づいて作ったみたいに、うつくしく精妙だ。野菜ばかりではなく、魚の内臓の配置、骨の形、目玉や鱗の質感も。

生き物を食べてるんだな、とそのたびに藤丸は感じる。こんなにきれいな仕組みと体を持った野菜やら魚やらを食べて、俺たちは生きてるんだ、と。なんだかおそろしいような気もする。

 

p67

気持ちが悪いような、貴いような、そんな気がした。植物も動物も、野菜も人間も、つぶつぶした細胞を必死に働かせて生きているという意味では、なにもちがいはないんだと、なんだか愛おしいような気もした。

 

p74
どうして指の先にだけ、こんな硬いものが生えるのか。藤丸はべつに、「爪、生えろ」と念じてはいないのに。

 

p75

腹を満たせるのは一時のこと。おいしくて栄養バランスの取れた料理をいくら食べたって、結局いつかは死ぬんだから。

 

p113
藤丸が感じている自由もまた、「檻のなかの自由」にすぎないと言えるだろう。

 

=2章=
p155
うまくいくかいかないかわからないものは、実験だけで十分だ。それ以外のことに心身を揺さぶられたくない。

 

p183

思考も感情もないはずの植物が、人間よりも他者を受容し、飄々と生きているように見えるのはなんとも皮肉だ。

 

p205

本村は、「そうか、悩んでいいんだ」と思った。

 

p235

どんな仕事も、ひとの営みも、明確な完成がないという点では同じだなと本村は思う。たとえばだれかを愛する気持ちも、積み重ねても積み重ねても完成ということはなく、それどころかもろく崩れ、移ろうときがいずれ来るものだろう。たぶん。

 

p255

ひとは植物になれない。でも、ひとであるからこそ、植物を知ることも、研究に情熱を燃やすことも、スイートポテトを味わうこともできる。

 

=3章=

p289

なにかを大切に思う気持ちが、いく先を照らすことがあるのだと、かれらを見ていると実感される。

 

p290

趣味でも仕事でもひとでもいい、愛を傾けられる対象があることこそが、人間を支えるのではないかと思えてならないのだった。

 

植物の不思議さを研究することは、人間の不思議さを知ることに通じるのかもしれない、とも思う。同じ星に生きる植物が、ひとの姿を行いを愛を鏡のように映しだし、「おまえたちはどういう生き物なんだ?」と問いかけてくるかのようだ。


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大学院が舞台の小説って読んだことがあるなぁと思って、読書リストを見たら、中村航さんの「僕の好きな人が、よく眠れますように」でした。

大学院という私の知らない世界を垣間見ることができたような気持ちになって「ヘェ〜」と思いながら読んだ記憶が蘇りました。


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