文章を読むことについて | けいすけ's page~いと奥ゆかしき世界~

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日々感じたことや思ったことをつれづれなるままに綴っていきたいと思います。

文章を読む楽しみのひとつは、相手の表現したいことの核心に触れる体験をすることです。


この体験に至るには読む者には考えることが要求されます。表面的な内容認識では読んだことにならない。筆者の思考の先にあるものを彼とともに見据えること、そこ至るのが読むことです。


考えるとは、読むために必要とされるものと読んだ後に必要とされるものがあります。だから、人に寄り添うまでと寄り添ってからとではやることが違います。また、寄り添ったつもりになることはもちろん、寄り添ってもいないのに相手と同じものを見ようとすると、見え方が変わってしまい、とんでもない勘違いをしてしまうことになります。


寄り添うことは確かに難しいけれども、少なくともそうしなければならない。でなければ、読む行為は言葉群の意味の単なる認識に堕してしまします。


言葉を紡ぐことは、実は非常に難しい。いい文章には必死に紡ごうとして付着した汗やシミがあります。あまりにも美しく出来ているため一見それらの付着物は眼にとまりません。しかし、筆者はどんな思いでこの文章をつづっているのかという想像力をはたらかせながら、一行一行言葉の網の目を見るようにゆっくり文章を追っていくと、その文章の背後に、汗まみれになって考えあぐねながら言葉を紡ごうとする血の通った人の気配を感じることができます。文章を読むとは、まずは、この相手の頭の中へと吸収されていく体験です。けっして、文章を自分の頭の中に吸収することではないのです。


筆者は必死です。精いっぱいです。だから、こちらから出向いてあげなければならない。なぜ執拗にこんなことを言うのか、なぜここでこんな表現を使うのか、筆者にとってOOとはなんなのか、それはなぜなのか。こちらから問いかけることは無限にあります。相手の疑問提示を待っているだけの受動的な構えではいけない。積極的に問いかけ、文章と対話をしながら徐々に近づいていく。その蓄積が、筆者の核心へといざなう。この核心を得ること、そしてその立場から相手と同じものを眺めてみる。そうすると、なんという素晴らしい光景が目の前に広がっていることか。もちろんその全く逆の場合もありえます。筆者はなんという恐ろしいものを見ていたのかと。しかし、いずれにしても、自分という殻を破って他者へと接近し、今まで自分にとって未知であった場を知ることができる。つまり、自己を拡張させることができるわけです。


ここまでは、いかに相手に寄り添うか、つまり読むために必要とされることです。文章を読む楽しみはさらに、それによって拡張した自己とどう向き合うかという段階にもあります。ここから先の体験は人によって千差万別でしょう。ある文章を読んで、文句なしにガーンとやられて一生をその経験を引きづっていく人、自分の檻をやぶって独創的になるひと、感動にいたたまれなくなって文章をつづる人、それを他者と共有することで感動を分かち合うことを目指す人、自分の深い読みを人に自慢する人…。


私の場合は、感動したあと、頭の中で色んな刺激的想念が縦横無尽に駆け巡ります。それを言葉に変換したいけれども、それができずに結局ぼーっとしたり、何かほかの作業をします。しかし、何をしていてもその感動と想念が頭の中にとめどなく溢れてきます。そのことによって成長を感じます。そして、それ以前の過去の自分がどうであったかを認識することによって、そうではない現在の自己の輪郭を感じ取ることができます。これが私にとっての楽しみです。その流れ去る想念をすくってうまく言語化できたら、幸運です。


みなさんは、文章を読むことにどのような楽しみを抱いていますか。