英国近代史(3)  土地バブルと紳士階級の増大、インフレの進行と賃金の物価硬直性、実質賃金の目減りと賃金労働者の貧困化、貧困問題の同時代性と社会問題、市場経済シフトと賃金労働貧困者、経済科学の分化と公式統計情報の不存在、貪欲とモラルハザード、自由意志の欠陥と非クリスチャン主義

 

(訳注)土地バブルの進行とインフレの拡大は一方で勝者としての紳士階級という富裕層の増大を生み他方ではその敗者として賃借農民と賃金労働者の生活貧困化を生み出した。現代に例えればインフレの発生は一方で金融バブルを生み他方では都市を中心として賃金労働者の貧困問題を生み出していることと極似している。その背景にあるのが物価上昇と賃金上昇の硬直的解離性があるからである。我が国の現状、世界の現状はこの硬直性を無視していることから始まっている。これを教授は貧困問題の同時代性と言っている。15世紀までは貧困はあったが社会問題としての貧困問題はなかった。しかし市場経済へシフトしてくると人口動態変化や物価上昇は浮浪者やホームレスなどの極貧状態の社会問題と、賃金労働者の常態的貧困問題を引き起こした。これは16世紀に始まり現在まで続いている現象である。まして16世紀には何が原因でこうなるのかは全く分からなかった。それは当時まだ経済科学が中世からの倫理哲学から分化していなかったからである。歴史家は様々な情報を使って当時の失業率や物価上昇率を計算しているが、当時には公的統計情報もなく科学としての経済学がなかったからである。常に当時の為政者たちはモラル違反(貪欲)から社会的関係の崩壊が生まれると主張し、対処すべき方法論は全くなかった。今の日本も同じである。

 

 

 

 

修道院用地の買い手は十分にあった。多くの投資家の需要にこたえることができた。投資家によって取得された多くの修道院用地は速やかに売りに出された。この全体的結果は一種の狂乱した土地市場に火をつけた。その結果は当然のことながら大地主たる教会の立場の深刻な低下だけでなく結果としていわゆる紳士階級と言われる数の究極の重大な上昇と比較的豊かな紳士階級の富の増加が認められた。(1803)ある人々はこの状況の中でうまく立ち回ったが勿論すべてが浮揚したわけではない。この種のプロセスの変化は昔からなく、常に「誰がこのプロセスの中で敗者だったか」は問われなければならなかった。そこには明確な大きな集団があった。中でも賃借料の値上げに追いつかない、賃借料の支払いに充てられるだけの市場を最終的に見つけられない、十分な利益の無い小規模な農場の賃借人だった。

 

農地の賃借人の立場で考えると彼らは土地への足掛かりを得ることを熱望していたが、ますますその困難さは地代や課金の上昇で増加しそれが叶わないことがわかった。彼らは村の中で地域の土地市場を集約してゆく大規模な農民と競争できないことが分かった。(1901)その点で特に若者にとっては困難な時代であった。しかし結局これは地方や町での非土地保有者の数の増加を生み出し、基本的には労働者として賃金を稼ぐことで生計を立て、その居住する地域で平民階級としての権利を享受することになった。賃金で生計を維持することは特にインフレの難しい打撃をうけた。物価の上昇という事実にもかかわらず、生活水準は締め付けられたにもかかわらず、人口の増加から豊かな労働市場が利用できたから賃金は徐々にゆっくりとしか上げられなかった。賃金は傾向として長期間にわたって習慣的に固定化していた。このことは人々の実質賃金は低下していった。(2002)これに密接に関連した研究が行われ、それによれば英国南部の1510年から1550年の賃金の購買力は40%も低下したと言われている。

 

1550年代までにそれは50%にまで低下し16世紀の後半にかけて緩やかに徐々に回復を始めた。この時代は多くの人にとって極めて難しい時代だった。William Harrisonの書いたElizabeth統治の時代の初めの有名な作品の描写によれば、その多くを費やした記述は「一種の人間の劣化」であり、主として「白い肉」と呼ばれる卵やチーズやパン中心とした生活だった。特に飢饉の時代には厳しい試練にさらされエンドウやその他の豆類やドングリでさえも焼いてパンにしようとした。さらに加えて彼は「この極貧状態は多くの時代によく見かけたとは言わないが、厄介な時代だった」(2107)これがHarrisonがこの時代の貧困層の生活水準を皮肉っぽくコメントしたものだった。このすべてが増加する貧困問題の同時代の関心をひいた。貧困は常に存在してきたが貧困が15世紀では社会問題の中心にはなってこなかった。貧困の問題が多くの問題になってきたのは少数派の劣後者、未亡人や高齢者や病人や孤児たちライフサイクルの危機の結果から生まれたものだった。これらは同時代性を持つものとして「弱者の貧困」と言われ、自立できない人々、制御不能な環境から生まれた貧困者と言われた。

 

しかし16世紀の進んだ人々は貧困について二つの面倒な発展形態として話しそして書き始めた。(2201)それは最初に浮浪者の問題として認識された。ごろつき、ならず者、放浪者の問題であり、ホームレスの人々が町や通りで田舎道でさえも見かけられるようになった。逮捕されたものはWelshの国境近くで審判にかけられ、その審理の中で連れてこられたものは住むところがなく、記録を引用すれば「どこにも住まいはなく住所もないが働くところを見つけようとしていた」浮浪者は仕事を探し田舎中を歩き回っていた。このような人は16世紀が進むとどこでも普通に見られた。面白いことにWilliam Tyndaleの新約聖書の12使徒伝の翻訳の中で聖人パウロがテサロニカで強漢に攻撃され(2304)たシーンで文字通り街角に立つ人々を意味するギリシャ語からこれを「浮浪者」と翻訳した。Tyndaleは町の中をうろついているものをイメージしようとした。彼がイメージしたのがロンドンの街角で見かけてきたこの浮浪者のようなものだった。ならず者、放浪者、浮浪者が重大な問題として出現した。

 

その一方で彼らが訴えたのが「労働貧困者」の問題の増加であった。人々の生活全体のスタイルがどこで働いていようと基本的に市場経済にシフトしていった。確かに労働はますますそれで家計のやりくりをするのは難しくなっていった。「労働貧困者」、何らかの不運をこうむった人々はまた実際に厳しい貧困に陥っていった。(2402)例えば仕事が見つからない場合や繊維産業の不振や、病気などの場合である。特にこういった人々は賃金労働者が集中している地域、特に町や地方でも多くの人が地域産業で働いていたところで見かけられた。まとめの棚卸をしてみよう。1540年代までに物価上昇や人口動態増加がある面では経済活動の加速化を進めてきた。ある人々にはこれは新しい機会をもたらし事実繁栄と豊かさをもたらした。しかし同時にまた地主と賃借農民の関係に緊張感の増加をもたらし、土地欠乏の問題の出現や貧困への脆弱性を持つ賃金労働者のかって見慣れない規模での増加をもたらした。(2502)人々はこれ等の変化を知り、緊張関係を知ていたが、当時の彼らの視点からはこれらの変化の兆候は実際の原因よりもより明らかなものだった。

 

これは16世紀の人々にとって何が起きているのかを理解するのは極めて難しい問題であった。公式の統計も持っていなかったし、手元資料にあるような数字は歴史家によって様々な資料から計算されたものである。その同時代にはこの種の情報は存在しなかった。彼らは感覚的に変化を知っている傾向が強く問題の出現を過去から引き継いできた判断、中世の倫理哲学を通して認識する傾向が強かった。この哲学は経済行動の世界は特定の行動エリアとして扱ってこなかった。この現象は経済科学によって研究すべきもので、彼らは個人的な社会的なモラルの分野として扱うべきものとしてきた。(2610)彼らの視点での理想世界は今までも言ってきたように公共の福利・共和国(commonwealth)だった。彼らは従ってこの問題は公共の福利の理想の失敗としてとらえ、失敗は特定の人々の悪事に帰するとした

 

これらの理想は16世紀初頭を通して主張されてきただけでなく、1540年代を通しても経済的不平不満に対処しようとしたEdward6世の時代にその大部分がプロテスタントの聖職者だったいわゆるモラリストの出現を通して強力に再誇張された。彼らは当時「Commonwealths man」(公共福利派)として知られたのは常に公共の福利の必要性を説いていたからである