(3)  教会への遺贈と死者の福音とミサ、教区の経理帳簿と祭壇の維持、ギルド(講中)の相互扶助と慈善機能と教育機能、信念と信仰とコミュニティの理想郷、講中と聖職者の確執、聖職者の不正行為と性的乱交、ヘンリー8世の枢機卿と私利私欲と高慢

 

(訳注)聖人信仰への地区教会の傾斜の三つの証拠がある。一つは遺贈・寄進である。信者たちは死後の福音と浄罪を求めて多額の寄進をした。この教会への遺贈と寄進は教区の教会経理帳簿にその収入支出内容が明らかにされている。帳簿は教会員の出資と呼ばれる寄進とその支出先が明らかにされている。それはあくまで教会の祭壇とそのコミュニティ維持のために使われた。教会ギルドを講中と訳したが、基本的には日本にも存在したギルドである。この経理帳簿から明らかになったのはこのギルドが持つ相互扶助と慈善と教育機能である。そこには女性講や青年講もあり信念と信仰と地域コミュニティの理想郷が描かれていた。浄罪と魂の慰安、不安心理と救済の取引が見事に成り立っていた。しかし現実にはミサの解釈の多義性やギルド出資と聖職者の確執や10分の1税や葬儀費用を廻る葛藤が渦巻いていた。更に聖職者の性的乱交や高位聖職者の高慢さや教会裁判所と衡平法裁判所の管轄を廻る弁護士の不満が底流に流れていた。こうした聖職者のモラルや利得がヘンリー8世の時代に爆発した。宗教改革である。

 

 

 

 

そこには人々が引き寄せられていた3つの主要な証拠がある。まず最初は人々の意志である。そのほとんどが16世紀初めごろから宗教への何らかの遺贈の形見が残っている。信仰への遺贈の金や教会の美化の形で残っている。一つの大々的な例は前に言及したNorwich市の大富豪Robert Jannysが死んだ1520年代彼の財産の大部分が宗教目的に残された。全部で1400ポンドが現代の貨幣価値に換算するのは難しいが、多分5から6百万ドルが現在価値で宗教目的に残された。そこにはこの敬虔な遺贈が信者の形見と死者の魂のミサの上に特定の焦点があてられたことに他ならない。(2004)例えばRobert Jannysは1400ポンドのうち800ポンドは司祭たちに彼の魂のためと他のキリスト者の魂のためにと言うようにしてもらうための支払いに充てられた。加えて400ポンドはミサへで同じことを言ってもらうための、同じ献納の金だった。つまり敬虔な遺贈がこの熱狂的な妄執的な信仰の証拠の形だった

 

第二はたまたま残っていた教区援助会委員の教区経理の帳簿で、そこには人々が教会に献金しその組織や教会の建物の再建築や美化や備品に使った重要な多額の金が載っていた。彼らはさらに税金や荘園領主に払った地代より多くの金がその目的のために払われていた。(2103)第3に宗教的ギルド活動の証拠がある。国中全体で数多くの宗教的目的のための宗教団体や講中が組織され、そこで人々はお互いに祭壇を維持するために生きているギルド仲間や亡くなった仲間の魂と生活やを祈るために団結した。彼らはしばしば貧困救済のための慈善機能や教育機能をを持っていた。この多くは全くの自発的な仲間やギルドに人々が参加していた。ロンドン市の場合単独で16世紀初頭には81社の宗教的講中が運営されていた。Norwich市の場合には1500年代21社ありさらにもっと細かいものもあった。

 

Devonの小さなMorebath教区ではさらに細かいExterの北側にいくつかの講中がありそれぞれが町の異なった人々で運営されていた。(2201)女講中があるし青年だけの講もある。農耕地域では彼らの羊が講中を維持するために献上され、代わりに会員はそれらの羊の面倒を見てその利益はギルドの活動を維持するために使われた。これらの活動は明らかに多くの証拠を残した。伝統的宗教におけるこれらの出資は巨大なものでその参加は各方面に広がった。誰もそれは否定できずその証拠は明らかだった。これは歴史家Richard Rexの見方を支持している。彼は「信念と信仰で一体化したキリスト教信者のコミュニティの理想であり、その理想はプロテスタントもカソリックも同じように熱心に追及されるべきであるが、決して接近することはできない」中世後半の教区のようにはできないと言っている。(2301)確かに証拠を見ればそう読むことができる。そして今現在は歴史文献史上それが優先的な見解になっている。

 

しかし同時に何らかの曖昧さを避けて認識しなければならない。実際に如何に上手く教区の教会に出席するかを確信することはできない。いかに教区のギルドが広範囲な参加を求めたかは確かではない。ある所ではあるギルドは何らかの社会的除外されているがある所ではかなり広範囲に広がっている。なかんずく、膨大な金額の金が出資された中世後半の教会は特定の目的をもってある人の魂を浄罪苦を通して靖じると言われている。これが本件の基本的なRobert Jannysの言っていることである。浄罪苦を通した魂の慰安という先入観は何か他のものよりも恐れによって動機づけられているある意味で浄罪苦が耐えがたい教義、特に彼らの魂に対するミサに対して許しがたい人々の間でその不安を煽ることにになってきたことである。言い方を変えれば伝統的宗教が否定することができない重い出資という事実に、その意味が解釈の余地を残したままに来たことである。(2431)

 

これだけの歴史的証拠をより読み込む道が残された。同じようなことが講中の会員にも聖職者と信者との関係の証拠についてもいえる。確かに時に10分の1税を巡って鋭い抗争が起きた。時に10分の1税の支払いに憤慨した人々がそれに抵抗し、同じように聖職者によって要求された他の課金、死んだときに支払う葬儀費用などにも抗争はあった。(2506)そこから聖職者の絶え間ない不正行為の問題が生まれ、特に理論上は独身主義者だった聖職者の性的不品行や乱用を生んだ。これは中世後期を通してその下品なコメントが物笑いの種になった。時には教会裁判所の管轄権の範囲であり、その範囲には精神的本質から結婚や遺言の検認が含まれ、特にこれがライバルの民事裁判所の衡平法弁護士の憤慨の元になった。あるいは有名な聖職者の高慢なうぬぼれの態度は一定の皮肉と軽蔑の念の下にもなった。

 

高名なこの種の非難の対象になった聖職者の傑出した事例はHenry8世の聖職大臣でThomas Wolsey,Wolsey枢機卿だった。(2606)彼は1514年から1529年Henry 8世に代わって政府の運営に専念していた。Wolseyは高慢で横柄で能力は高かったが非常に無礼な人物だった。複数の要職を兼務し、York大司教であり、Durham司教、や他にも訪れたこともない教会から収入を得ていた。彼は派手に金を使い王によって没収された場所に自分の建物を建てていた。多くの妾と子供を持っていた。議論されてきたことは教会に対する反対活動を起こそうと少数の人が1520年代以前に別の教会の権力介入反対の宗教を描いてきたにもかかわらず、(2702)それが出来なった。その視点は明らかに一定の強さを持っているがそれが行き過ぎではないかと考える人もいた。教区の司祭たちは実はあまり教育を受けてはおらず、何人かはモラルに欠け何人かは教区民との間に抗争を抱えていた。しかしその一方で重要な問題は彼らは皆が期待する適切な宗教的サービスを遂行できるかどうかだった。

 

基本的義務は教育者としてのものではなく基本的義務は牧師としてのものだった。基本的義務は司祭としてのものだった。儀式を行い、7つのサクラメント、洗礼、堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の儀式を行い、ミサを行うことだった。何らかの欠点があれば彼らもまた聖なる力によってそのサクラメントを行う叙階を受けることができる。(2800)彼らはミサの要素を聖別することができる。彼らは死への最後の儀式を仕切る力を持っている。彼らは罪を赦免する、中でもそれが心配なことであっても引き離す力を持ち、そして尊崇の対象とすることができる。ある意味では人間の弱さは神の権威によって覆い隠すことができる。Thomas Wolseyのような高位の聖職者は16世紀までには例外的に壮大なものであった。ほとんどの司祭たちは全体として荘厳な集団であった。多くの人が基本的にはその機能の管理者であり、教会だけではなく地域の奉仕者であり、まじめな教区の運営者だった。聖職者としての教区財産への権力と特権を与えられその乱用は非難され憤慨され抗争に至ることは避けがたいことで、そこに(2907)時には悪名高い明らかに重要なあと知恵のスキャンダルが生まれた。にもかかわらずかかる事件が緊張を明らかになっても彼らは必ずしも既存の教会への基本的な敵意を明らかにしなかった。