英国近代史(5)         聖職任命権と完全統治権、内室官房と宮内官、国会業務執行と政治的大衆との接触、討議の場としての国会と発言の自由、政治的抗争解決のための公開討論と皇室政策の正当化説明、統治機構の発展と統治エリートの不安、反乱貴族と反乱罪、私権はく奪法案と土地の没収、承継問題と宗教問題

 

(訳注)権力構造の最終講義である。2つのPと2つのC。Tudor朝の権力構造を権威化させた例を挙げている。2つのCのうち第一のCはconsultationである。城と王宮と教会の聖職任命権を介在させた完全統治機構は次に内なる統治の方法として皇室の内室官房と宮内官という利益供与システムを作り上げ、貴族たちとの個人的関係を築き彼らにも一定の利益を与えた。しかし最も中心的な助言システムは国会であった。皇室という業務執行機関の主催により召集された上院下院という政治集団との接触の場所である。その後世界で真似されることになった「国会」というシステムはこの時に始まった。国会は全ての立法を審議する場になったのは、皇室という統治権者が国民諸階層の政治的討議の場所を提供し、発言の自由を認め、政治的葛藤のガス抜きをする場所になった。公開討議を経て皇室業務執行の正当性を説明する場でもあった。こうした統治機構の発達は一方で統治権者の王の不安を助長させた。それから最後のCとして強制力の行使弾圧が始まった。Coercion。反乱貴族や反乱可能性のある貴族に対して予備罪のような「私権はく奪法」ができた。貴族たちの財産の没収である。一部は相続人に承継させることを認めたが代わりに王への忠誠を誓わせた。この誓約証書は身代金の支払い証書のようなもので貴族としての建前の遵守を強制し違反すれば再び私財を没収した。こうして皇室財産は内戦後増加していった。家臣団を保有するにもライセンスが必要とされ、さらに踏み込んで反逆罪が成文化し王の猜疑心にかかったものはロンドン塔に幽閉され処刑され全国の主要都市の門前に見せしめとして展示された。こうして王の威厳と恐怖政治はバランスを取った。しかしこの時期の統治機構は成文の無い同意のもとに権力構造の分担が慣習化し王への恭順のもとに君主制の権力構造が再建された。そして次なる問題は承継問題と宗教問題になった。

 

 

 

 

更にこの種のプロパガンダよりも重要なこと、事実本当に重要なのは聖職任命権の活用、彼らが完全な統治権good lordshipと呼ぶ活用だった。これが主要な特権や名誉や皇室行事の見返りに与えられる本質的な恩典の贈与に関係していた。王の利益と彼の目的とは対立するものではなかった。このシステムは両者の利点にある理想的なものとして利用された。Henry7世から先Tudor朝は注意深く緊密な皇室との親和的皇室の維持装置を作り上げてきた。皇室の土地がこの究極的な目的のために使われた。(3703)それが彼らの忠誠心を示し利益を共有する皇室の土地の管理責任を認め、好条件のリース、城の治安の維持や管理の拠点となり、もちろん王の信頼を誇示した地域的権威の容認によって、名誉と権力がその地域的優越性をもって一致することになった。これは皇室も個人的尊厳性の利益だけではなく彼ら自身のクライアントや支持者への利益供与にもなった。彼ら自身の親近性の維持や立場の強化につながった。Tudor王朝はこの種の権力者を育てることに彼らが皇室である限り異議を唱えなかった。しかし理想的には聖職任命権は派生的なものであり、その行使は王冠に従属するコミュニティの利益を最大化するために慎重に扱われ(3806)るべきものである。

 

さて、それでは受動的助言consultationの方を見てみよう。王宮はまさにこの利益供与システムの中心に位置した。王への接触は頻繁に行われそれが現実の権力の王の立場だったからである。若いHenry8世の下で内室官房に供した紳士、王とともに狩りやスポーツをした彼の個人的な仲間たちは現実に王にアクセスできる中心の人物だった。中でも身のまわりの世話をする宮内官は今でも存在する。Henryの時代の宮内官は文字通り王の私室の身の回りの世話をしいつでも必要とするものを持ちこんでいた。この人たちは王の耳に名前を聞かすうえで優れた立場にあった。(3911)しかし宮廷はこの協議会のより幅の広い仕事には熱心に取り組んだ。どんな重要な人物でも時々は宮廷を訪問することを期待し当時の王は極めて近寄りやすかった。Henry7世は近寄りやすいことで有名だった。彼は人々を仕事をしていた個室に招き入れていた。Henry8世も気軽に話せることで有名でご機嫌のよい時は背中をポンと叩いて屈託ない人物だった。貴族たちは特にこのような個人的接触をのぞんだ。彼らは私的な関心事の相談や助言をすることを期待していた。

 

彼らは通常の業務執行ではなく、彼らの責務の中心は彼らの地域の統括にあったが、彼らは年に一度の個人的接触を期待した。より広範囲には通常の業務執行協議会は政治的な集団との接触の拠点だった。(4004)そこでは手紙を受け取りまた投函していた。それで王の慈悲深さを表し感謝の念を表した。そこでは注意すべきあらゆる仕事をこなしていた。勿論国会があった。助言を受ける最大の機会だった。すべての政治的民衆が共同の活動をするために参集していた。Thomas Smithはこれを称して「あらゆるイギリス人が個人的に王の代理人から最下層の人まで出席しているつもりでいた。国会の同意はあらゆる人の同意だった。」と言っている。しかし王は国会を資金が必要な時や新法や支持が必要な時だけ招集した。1529年以前の初期Tudor朝時代には招集は時々行われたが1529年から1559年の宗教改革の危機が起きた時、8年間は国会の開会がなく通常の政治的プロセスが発展していった。(4110)

 

Tudor朝の王たちは国会から彼らが望んだことを受けていたが同時に注意深くその執行をしていた。そこへの遵守だけが当然のこととはしていなかった。運営に注意深くそこは純粋な討議の場だったからである。下院の課題を整理した議長はそれぞれの議会の最初は発言の自由を認め王に対して率直に話すよう求めた。1547年までその自由は国会の議場内に限り国会議員のすべてに拡大された。彼らはいかなる議題も率直に王と国民のために演説することができた。そして議員は代わる代わる彼らが望むことを話すことができた。政府の法案は地方の経験に照らして修正することができ、また特定の地域色を意図した多くの議員立法が通過した。(4206)助言の場としての国会は潜在的抗争の解決のための非常に重要な公開討論の場所で、皇室政策とその説明と正当化の場所でもあった。Tudor朝は非常に注意深くその目的を達成するために使った。事実ある時Henry8世は国会に出席したときへつらって皇室の尊厳はそれほどには高くないと言った。機構の成長の重要性は統治エリートのメンバーとして奉仕することの不安に表されている

 

しかし最後にもし宣伝活動と後援活動と助言の利用が王権の利害と政治大衆との結合が上手く行かなかったときは、当時は善政と区別された圧政と言われた強制力の行使が残っていた。しばしば明らかになったのはHenry7世と8世の両者が打ち立てた権威と王朝の時代だった。必要とあれば国会に「私権はく奪法案」を持ち出し(4319)た。私権はく奪法案は単に特定の個人を反逆罪に当たると告発することで、彼らから土地や地位を奪うことだった。これはしばしば反乱貴族に対して使われた。彼らは相続人の財産に入れ替えることを自主的にすることを認めたが彼ら自身でその遵守を証明しなければならなかった。Henry7世はしばしばこの私権はく奪を行った。彼は賢明なことに彼の統治の始めをBosworthの戦いの前日の日付にしていた。彼はそれを国会の同意のもとにしていた。その意味は彼に反対する誰もたとえ実際に当時の王に対し闘争中であっても自動的に反逆者となり土地ははく奪された。(4411)これが皇室の土地をその動きの中で大きく拡大させ増やすことになった。

 

私権はく奪法案はまた反動の可能性のある王座を支持した偽善者につかわれ、実際に1487年Henry7世に対して反乱が起こされた。Henry7世はまた積極的に他の弾圧手段も使った。彼の誓約証書に基づいた貴族の配置をみると、それはまるで保釈証書のようなもので、貴族は品行方正に振る舞うことを余儀なくされ、それに失敗すると巨額の財務負担金を払わねばならなかった。(4504)通常彼らは親族あるいはその証書に支持者の間から担保を差し出さねばならなかった。すなわち貴族としての建前を遵守することに利害のある人はそうでないと体面を失うことを意味した。例えばこれは新しい法律の要件を破ったどんな貴族に対しても使われた。例えばHenry7世の下で家臣を持ち続けるにはライセンスを受けることが法定化されていた。ライセンスを受けたものだけが武装した家臣を持ち続けることができた。彼らは皇室自身の家臣に近づくことも禁止されていた。彼らは王への忠誠だけを負っていた。これを侵害したものは協議会の前に引き出され保証証書の保証を余儀なくされた。(4603)

 

Abergavenny候はKentの中心的な有力者だったがこうした遵守違反で合計で70000ポンドの過料金の支払いの可能性があった。これは実際に執行されなかったがDamoclesの剣のように彼の首を吊り、将来にわたって彼はこれを遵守した。そして反逆罪の法制化があった。14世紀には反逆罪の法は王に対する個人的また家族に対する敵対あるいは彼の権威に対する表面的な動乱の行為として定義され導入された。初期のTudor朝時代まで反逆罪は延長された。Henry8世のときに王の結婚の正当性を否定する反逆的言動を含むことになった。特に危険な個人は容赦なく消された。(4701)Henry7世のもとで若いWarwickのEdward伯爵が最後の潜在的なYorkの王権の請求者は子供のころからHenry7世の王座が危険にさらされた1499年までロンドン塔に幽閉され彼は処刑された。Bosworthの戦いでHenryを支持していたWilliam Stanley候は王の猜疑心のもとに1497年に殺された。Henry8世のもとで生意気なBuckingham公爵のEdward Staffordは1521年でっち上げられた罪で処刑された。彼の本当の罪は彼が王座へのかすかな希望を持っていたことである。Henryはまだ男性の後継者がおらずHenryは男性後継者はできないという予言を聞いたBuckinghamは王に対して怒りを買うような発言をしたからである。これが王の耳に入ったときBuckinghamの時代が計算に入った。(4807)王の不機嫌の下になったほとんどの貴族は、Buckinghamのように首切り斧で切られて死んだ

 

数は少ないが首つりのあと四つ切にされその意味は処刑の手段として不名誉なものだった。その意味は完全に死ぬまで首つりは腸を抜き出し腸は彼らの目前で燃やされそれから体は4分の1に切られ瀝青の中に浸けられ他の潜在的反逆者への見せしめとして王国の主要な都市の門に展示された。審判手続きと反逆罪審判はきわめて独断的なものだった。協議会は気ままに逮捕令状を執行し、当時の英国の法律では通常使われなかった容疑者の拷問を命じた。弁論審査は否定された。(4900)法廷での派閥争いから失敗を避けるために証拠は捏造された。非常に高いレベルでの政治的抗争は、特にHenry8世の時代では死をもって幕引きになった。事実Henry8世の歴史家はある面で彼の治世の宮殿は人々が常に王の不機嫌から生まれる恐怖を感じたStalin時代のKremlinの雰囲気を持っていた。つまり王冠は皇帝に気前の良さを与えるとともに、その主導的課題の助言を受けるが同時に獰猛な怒りを表した。王の威厳が示されるとともにそのバランスは恐怖で平衡された。

 

これらすべてが政治的文化に付け加えられ一連の政府機構が一定の認識と規則と実務によってその政治的行為に命を吹き込まれた。(5002)いかに行使されたかその成文のない同意は政治的社会を通して極めてよく理解され政治的安定はこうした理解を通して様々なレベルでの多様な権力の分担が行われた。有効な規則は王やその助言者のフレームワークの中で相当な政治的スキルの利用の結果自発的な遵守や主導的課題への参加をもたらした。ほとんどの場面で初期Tudor朝の王たちはそれを達成する能力を示した。15世紀の市民戦争で相当の痛手を受けた王冠の権威の再構築恭順の習慣の浸透、君主制の潜在的権力の再構築とその強化、などが後で教室で話し合うことになるだろう。(5100)最後に16世紀における政府の変化は単なる皇室の権威の再主張以上のものがあった。そしてまた同時に政府の範囲と目的の拡大はその発展を理解する上で1530年代後半ほとんど課題とならなかったがすぐに出現した変化のプロセスの文脈を理解しなければならない。次回の講義ではこういった新しい問題の爆発、承継問題と宗教問題を見て行こうと思う。