(2)         王の尊厳性と権力と権威、王冠の十字架と絶対的権力、common lawの発展と慣習と慣例、王立政府の基本機能と裁判、貴族院と下院と国会

 

(訳注)権力とは何か権威とは何か英国近代史の視点から両者を定義している。権力はその裏付けに尊厳性と絶対性がある。英国は14世紀から王冠に十字架を掲げていた。そこに神以外の権威は認めない英国王室の絶対性がある。14世紀にはすでにローマ法皇は王の選択権を放棄し助言者の位置にとどまっている。一方権威とは権力の絶対性とは裏腹に極めて政治的な立場にある。権威を享受するには権威に対する政治的期待と機構への抑制的期待がある。支配者と被支配者の予定調和と言ってもよい。日常の行政は常に貴族議会のアドバイスを受けなければならない。更に教会官僚や役人などの官僚の力を借りなければ権威者として権力を行使することはできない。一方で権威者は一定の法の下に拘束される。英国ではcommon lawと言う慣習・慣例が支配している。王立政府はその権威を維持するためにその基本機能は法廷としてウエストミンスターに王立裁判所を持つことである。ここに刑事裁判と民事裁判そして和解と調停という現代の司法機能が生まれた。更に慣習法が該当しない事案に関し衡平法という自然法の概念が王の良心として生まれた。更に貴族院と下院が国会を構成し、成文法という立法機能が生まれた。現在三権分立というが英国近代史では行政や司法は権威を維持するための政府のサービスであり、誰の権利でもない。立法だけが唯一国会にゆだねられた権威である。

 

 

イギリスの王はすでに非常に高度の尊厳性と絶対的権力の概念を持っていた。14世紀以降しばしば硬貨に表れたように「王冠」をつけて表されたとして知られるが、この王冠はその頂点に十字架をつけた王冠として知られている。その意味は彼らが彼ら以上には神以外の権威はいないことを認識している象徴だった。法皇の権威は英国では教会だけに及ぶもので、14世紀に行われた契約で成文化し慣例化した王の任命は法皇はただ王にアドバイスし相談にのるだけになった。(0916)彼らは彼らの権威を放棄しなかった。君主は大きな尊厳性と皇室を表す王冠の独立性を表現したものだった。しかし王の尊厳性の高さほどは英国はまた当時の法律家John Fortescueは権威はそれが人を楽しませる限りは至高なものだが、同時に一定の政治的期待一定の体制の機構に抑制され耐えなければならないものであると言っている(1004)

 

第一に王は一定のアドバイスを受けるものと期待されている。彼らは議会によって主要な課題を指導されるものと期待されている。彼らは様々な議会のアドバイスに支配されている。時には何か主要な決定をするために特別なアドバイスが必要な時には主要な貴族の議会が招集された。Henry7世は多くの場合そういった主要な貴族の議会を招集していた。更に通常は日常の行政のために王は小さな会議のアドバイスを受けるために彼の部下を日常的に出席させ政府の仕事の執行を行った。そのメンバーの何人かは主要な貴族であるが、しばしば議会の中の地位は敬意を表すだけのものだった。(1100)

 

彼らは全体的に彼らのアドバイスを王に非公式に申し出るもので、時には彼らは裁判所で一緒に出席していた。その大部分はHenry7世の場合、日常的な議会は王国の貴族ではなく教会の主要なメンバーで構成され、有名なJohn Morton枢機卿は彼の初期統治段階でのアドバイサーであり、加えて多くの法律家や専門の官吏がいて、彼らはしばしば「役人」(man 0f business)と呼ばれ,一種王室官僚の中核であった。王は助言を受けることを前提とされていた。加えて法律によって拘束され、英国のcommon lawがcommonと呼ばれるのは俺が領土全体に及ぶからである。王の法律事項の布令が全体に及ぶという意味である。(1204)common lawは慣習や慣例によって数世紀にわたって発展を続けてきた。王の名で施行されてきた。すべての法令は王の肩書のもとで始まった。通常の状態では彼は法の拘束の下で運用することを期待されたが、彼の名の下で発布されていた。

 

法の執行や裁判の規定、不平の救済、穏和な紛争解決の手段などは王立政府の基本的な機能だった。時々は王が裁判に自らかかわった。Henry7世の時代に最も恐れられた法廷は王のCourt of Star Chamberで、ウエストミンスター宮殿の一室にありたまたま屋根に星座の飾り付けがあったからである。(1302)これは実質的に王が個人的に出席し法廷に座る王の議会であった、しかしほとんどの場合は主要な法廷は王室の外にあった。彼らは恒久的に国会の側のウエストミンスターホールに座り王室裁判所の一員だった。主要な法廷の名が手元資料に書いてある。Court of Kings‘Benchは主に刑事事件を扱い、Court of Common Pleasは主に民事事件を扱いChancery大法廷Cort of Load Chancellorがあった。この裁判所は少し特別なのはここはcommon lawの法廷ではなかった。ここはcourt of equity衡平裁判所Equityはcommon lawが自然の法の原則から権利の実現を予定していなかった事案を裁判官が判断するところだった。そこからChancellorは時に王の良心と呼ばれている。(1404)慣例法が働かないときに自然法をもとに正義の実現を図るものである。

 

中央の法廷に加えて王はまた委任によって正義の実現を図る。年に2回王立判事がウエストミンスターを離れ馬に乗って、文字通り騎乗して6つの管轄区に分かれて刑事でも民事でも事案が起きたと聞いた県の町から町へと出かけて行った。これらは巡回裁判と呼ばれ王立判事の騎乗巡回があった。さらに加えて王は和解のための裁判を実施した。それぞれの郡である中心的紳士が通常は犯罪、軽犯罪や他の行政上の問題の委託を受けて和解の判事に指名された。(1502)彼らは年4回会うことからQuarter Sessionと呼ばれる法廷で面会した。

 

議会と法が一緒になってまた別の大きな機構を作ったこれがParliament国会である。定期的に王と貴族院に席を持つ貴族と王国の庶民commonsたちの代表(下院)との会合を持った。貴族院(上院)は個人的に参加する召喚状を持った主要な教会の信徒と領土の貴族によって構成された。1510年では例として国会が開かれた時その数は100人で50人が教会の平信徒で50人が貴族だった。下院の方はそれぞれの郡から二人の代表を選んで、彼らはShire(郡)の騎士と呼ばれた。国会参政権を持つそれぞれの町から二人の代表がえらばれた。(1600)彼らは自治選出代議士として知られた。ロンドン市は例外を与えられてその規模から4人の代議士がいた。論理的には郡から来た代表者が40シリング以上の地価を持つ自由有権者によって選出されたが議席争いになったのはまれだった。一般的には郡のエリートたちは一緒になって彼らの代表権の持ち数から選出していた。それは選挙というよりは選択だった。