Yale Open Course

英国近代史

Keith Wrightson

6. The Structures of Power

 

(1)        英国の政治集団と王権と血統、政治権力と権威の構造、人民の保証遵守と他者への服従、正当な拘束と責務の順守、政体国体と政府の支配構造、体制史から政治史への告別、政治力学の文脈的変化、権威権力の資源としての経済・イデオロギー・政治力軍事力

 

(訳注)前回までの5回の講義は英国近代史を家計を中心とする様々なステークホルダーのコミュニティの誕生と交流をテーマとしたいわば英国近代経済史だった。今回はTudor王朝の誕生を英国の政治集団の誕生とその権威の承継を古い体制史的視点ではなく政治権力と権威の構造の観点から体制史から政治史への文脈の変化を見て行こうというものである。一言で言えば政治力学の文脈的変化をその人民の組織や機構の変化から読み解こうとするものである。権威と権力の定義は人民の順応性を抜きにしては語ることができない。英国の政治的文化のしたたかさを見て行く。

 

 

今日は初期Tudor朝時代の政治と権力構造の話をします。1485年8月22日それまではRichmond伯爵だったHenry Tudorは中央イングランドにあったLeicestershire郡で起きたBosworthの戦闘でKing Richard三世に敗れ殺され,

その王冠は戦場にあった王のテントで見つかった。そしてHenry7世が王になった。事実彼の王座への要求は何か薄弱なものだった。彼は父親側の祖父King Henry 5世の血統をひきその死後に王座を引き継ごうとしたが果たせなかった。彼の権利主張は14世紀のEdward3世の血を引いた母親のLady Margaret Beaufortを通して行われた。(0105)にもかかわらず彼の主張の薄弱さは、彼が最後のLancastrian家の要求者として特定の英国の政治集団の代理人として王座を継いだ。24年間にわたる王座の継承のあと彼の仕事はその王座を止めることだった。(0136)

 

第二に彼はできる限り権利を主張して第三にその王座を彼の息子に引き継ぐことだった。Henry8世は1509年その地位を継承した。こうすることで彼は新しい王朝Tudor王朝を樹立した。今日はこの王朝の初期の時代を見ながら特に政治権力構造とHenry7世とHenry8世初期に実践した王制の権威を紹介してみたい。(0208)そしてこれによっていかに樹立した権威を新しい体制として強化し維持するか示してみたい。さて「権力」というときに私が関心があるのは保障遵守と他者の服従を求める能力である。「権威」の意味は適法な権力のことである。これらの権力の形とその示威行為はほとんどすべてではないが人々が合法的に拘束されるかその責務を順守するかにかかっている。このような権力や権威には多くの経済的なイデオロギー的な政治的な軍事的などの資源がある。かなりの程度に見られるのはこれ等が複合しお互いに強化され(0307)るが、それらが一緒になってその時代に描かれた国家・政体を構成する。

 

政体・国体とはその時代に樹立された政府とその支配構造である。このような課題へ取り組むために当時の政治歴史家で流行していたのは新しい政治史と呼ばれるものを古い体制史から区分する必要性だった。その中心的課題がJohn Guyの「The Tudor Monarchy(君主制)」だった。そこからいくつかの課題書のカギが見つかった。ここで政治史上の人民の意味は政府機構の発展上の焦点と切っても切り離せないものだった。これが長い間この時期の歴史家にとって実際の核心的課題だった。彼らはまさに特定の組織の発展に焦点を当てた。(0400)その代わりに人民は政治生活の力学と文脈の変化と特に政治の社会的イデオロギー的文脈の変化とに関心を持つことを推奨していた。私もまさにその視点の変化には同感する。依然としてよく思い出すのは古い体制史の最盛期のことである。時々学生として政府の構造を把握することは学生にとっては退屈なことだと言った有名な大教授G.R.Eltonの足元に座っていたことである。そして彼が全講義を終わったときTudor政府で使われた印章をこの印章が採用された目的はなどと言っていた。彼は講義の中で実務的な話をした。

 

しかしたとえアプローチが何年もかけて変わっても、依然として我々が政府の権威を通して実践された組織を把握することは必要不可欠なことである。(0510)彼らは政治的競争のための公開討論会を提供し政治的競争が行われた道を作った。今日の歴史家はこの政治的文化に高い関心をもって見ている。手元資料にはいくつかの定義が書かれているが政治的文化が組織にもかかわっていた。それはまさにその一部だった。初期Tudor朝の組織的側面に即して始めそこから政治的社会にそしていかにその政治的社会が活発に初期Tudor朝時代の政府の権威をこれらの組織を有効に利用して維持し支配したかについて話してみたい。(0601)これらの組織のいくつかの不可欠なポイントは手元資料に記載してあるが、そのいくつかの組織を紹介するために手短にまとめてみよう。1500年代の英国は当時の標準と比べてもすでに非常に古く、極めて集中的均一的に君主体制化していた。すでに一つの君主制は600年から700年存在してきた。高度な中央集権制の起源はSaxon王の後半にまでさかのぼり特に11世紀のノルマン人の征服とその結果までさかのぼるが、今日の話の中心ではない。

 

1500年代までに多くの皇室政府の中央集権組織は非常に古く何度もの戦いを経た中世の王たちの自発的な関係性によって築かれた。中でも最も強い主体は貴族であった。(0705)彼らは王に仕えたが時には彼らに敵対しそれが何度も過去に行われてきた。王はもちろんまさに政体の中心にある。彼は16世紀の体制史家Thomas Smithによって、「命、首長、英国の領土で行われたすべての権威」だと描かれている王の基本的機能は平和を維持し領土を守り、法を治め正義を執行し教会を支えることである。現代の政府と比較すると相対的に機能は限られたものだった。その目的を達成するために王は様々な権力を与えられた。(0802)彼は法の支配のもとに行使できる通常の権力と考えられるものを与えられたが、緊急時にはそれ以外の法の境界を越えた絶対的な権力も与えられた