英国近代史(4)  地域間交易と全国レベルの交易、ロンドンの卓越性、市場経済とテームズ河川輸送、墓石と石工、国際交易拠点のロンドンとオランダ、ドーバー海峡とアントワープ、毛織物輸出と商人船団、プロテスタントの書の密輸拠点とアントワープ、理想郷としての英国、徒弟身分の卒業と自由市民の誕生

 

(訳注)英国の実質的首都であるロンドンの形成過程を話している。天皇陛下の英国訪問の最後の公式晩さん会がシティのギルドホールで行われたことは、今日の自由都市ロンドンの誕生と深く関わっている。英国の諸都市が地域間交易の拠点として成立してきたが、ロンドンは古くから最大の人口を誇る交易拠点だった。それが全国規模の交流拠点となりさらに大陸との窓口になった。人口動態が最大であったことは食糧と諸資材の需要拠点として拡大し、それがさらに最大の供給拠点として市場経済のマッチングが起きた。地政学的にはテームズ川の物流ルートとドーバー海峡という狭い短い大陸への航路が国際貿易の拠点として全世界に開かれていった。特に専門家によるサービスの供給は弁護士や医者などの職業集団を発生させた。大陸の交易拠点はオランダであった。アントワープを中心としたオランダの世界貿易網はスカンジナビアから地中海まで大西洋沿岸に広がっていた。更にライン川を経由したヨーロッパ内陸への交易との接点となった。このアントワープは当時のプロテスタントの書物の密輸拠点だった。それが大西洋の西にある英国へのプロテスタントの普及の原因にもなった。その背景には今回のシティのギルドホールという自由交換経済の市民権は徒弟制度を卒業した自由な市民による市民権の存在があった。

 

 

 

彼らは地域全体に焦点を当てるとともにそれらを国家の単位として一緒に結合しそれらを地域間交易のルートに位置付けた。しかし今話しているその結合の最後の要素は究極的には全国レベルでありそれが中でも首都としてのロンドンを作り出した。課題書で分かるようにこの時期の英国の都市システムはかなり偏向したものだった。人口が16世紀前半で15000人を超える都市は一つだけでそれがロンドンだった。(3103)ロンドンに対抗できるものはどこにもなかった。1520年代ロンドンの人口はすでに55000人に達しNorwichのサイズの4倍に達し、さらに成長を続けた。事実その成長は16世紀の最後の十年では200,000人に達していた。Londonは食糧や原材料の最大の市場だった。Londonへ供給したのはイングランドの東部や西部の農場で首都に向けて資材を送っていた。その多くは道路輸送かテームズ川を下った河川輸送や沿岸輸送で陸揚げできるところへ物資を運びロンドンへ供給した。(3201)

 

ロンドンはまた王国のどこでも必要とする財の供給者でもあった。ここはあらゆるモノの製造業の最大の中心で、王国の町や村のどこへでもそれを送り出していた。ここはまた今までどこでも得られなかったあらゆる専門家のサービスの供給者でもあった。例えばロンドンには多くの弁護士がいた。法律サービスが得たければロンドンが最適の場所だった。ロンドンには王立裁判所があって適切な判例を見つけることができた。もし医療に問題があったらロンドンは多くの適切な大学で訓練を受けた医者がいた。小さな町では得られないようなサービスが得られた。あらゆる面での対応ができた。馬鹿げた例だが、ある貴族や紳士が壮大なルネッサンス様式の墓を死ぬ前に教区の教会に立てたかった。(3300)多くの人がそうしていた。彼らは墓碑銘まで生前に書いて、「なんと素晴らしい男だった」と書いたそうだ。こんなことがして欲しかったらロンドンこそ許されるうってつけの場所だった。だから石工がこんなことをするために、ロンドンで注文にこたえて作ってからいくつかに分けて王国のどこの地方の荘園の教区の教会で建てるかによって運び出していた。冗談ではない本当の話だがともかく馬鹿げた話だ。

 

中でもロンドンは国際交易の最大の拠点だった。ロンドンが卓越していたのはオランダへ渡るのに非常に近いところだったからである。北海ドーバー海峡を渡ってすぐにオランダの都市、中でもアントワープへの航路は最短だった。(3403)手元の地図ではその隅の方にあるので時々は忘れられたりしている。ロンドンは主要な英国織物の市場で広範囲にわたって輸出され、また輸入品が陸揚げされる基本的な場所でもあった。事実毛織物だけで16世紀前半の英国輸出の3分の2を占めていた。少なくとも織物の半分はロンドンを経由して大陸に渡っていた。全英国の北と西そしてWalesからロンドンに集められMarchant Adventureと呼ばれた会社によって組織された船団で輸出されていた。反対にすべての財貨はオランダから輸入していた。英国では生産していなかった豪華な織物、高品質なリネン、絹、雑貨品などである。(3503)例として釘があるが、英国では生産されずオランダから輸入していた。

 

糊も生産していなかった。これもまたオランダから輸入していた。紙も英国では生産していなかった。ロンドンをベースにした製本業もオランダの紙の輸入に依存していた。あらゆる種類の雑貨品、オリーブオイル、果物、香辛料,砂糖、ワインなどである。その多くがオランダ経由でやってきた。オランダは北ヨーロッパの最大の交易都市で中でもアントワープは有名だった。彼らはそこからスカンジナビアに直結し北のバルチックから大西洋沿岸に沿って地中海にまでその交易ルートを拡大していた。またヨーロッパの河川ルートはライン川のようなオランダで最高潮に達しすべての財を輸送していた。オランダを中心拠点として英国はオランダを経由して世界貿易に直結していた。(3606)アントワープの話を続ければ、アントワープはこれらすべての拠点でその重要性はよく理解されていた。英国にとって中でも交易はアントワープとともに発展していった。

 

1517年Sir Thomas Moreが「Utopia」という本を書いたのは偶然ではなかった。彼はそこに彼が代表を務めた大使館をアントワープに据えて、Raphael Hythlodayという船乗りと西に向かって航海するUtopiaという素晴らしい土地の物語の話をしていた。オランダからも同じような話があった。一つの理想郷である。例えばここは1520年代以降英国に向かったプロテスタントの聖書のの密輸の中心拠点の一つだった。(3703)ロンドンの卓越した地位は真の国家的移住領域という事実に反映した。1000人もの自由市民に関する研究が1551年から1553年に行われ、徒弟身分を完了した青年たちが市の自由市民権を取得した。わずか5分の1だけがロンドンまたはロンドン都市圏の生まれだった。4分の1は南東地域や東Angliaから、4分の1はMidlandsから、4分の1は北から来ていた。他にはかなり英国の散在した地方から来ていたが南西部からは比較的少なかった。多分南西部の青年たちはロンドンよりもBristolの重要性を意味しているからだろう。しかしロンドンの集中量はまさに全国的なものだった。