英国近代史(3)  結婚の地政学と人口の地区内移動、社会的交流と地域市場の形成Yorkと北イングランドとYork大聖堂と北の王室と荘園と王室評議会、徒弟制度の発達と産業の多様性と地方首都の多様性

 

(訳注)近代英国の発展はその市場経済の発展の歴史である。その市場都市がそれぞれの地域のCountryの拠点として物流と人流の広がりを見せた。結婚の地政学によればその人口動態は15マイル以内でそれが地域市場を形成し、町のアイデンティティとしての首都志向性を見せた。しかし一方では食糧を中心に地域域内では調達できないものを相互補完的に各地域間の流通網がルート化した。この交換拠点はヨーク市で見ればそこに大聖堂があり北イングランドの王室があり荘園があり王室評議会がありあらゆる意味での首都機能を実質的に果たしていた。それが単なるい一次産品と二次産品の交易だけではなくさらに各種の高度な文化的サービス例えば製本や金属加工や時計などに繋がっていった背景には教会と王室の存在抜きではありえなかった。さらにそこには徒弟制度という人流がそれぞれの川沿いに河川輸送として発達していったことは大きい。

 

 

さて話のポイントに戻ると、いくつかの重要な市場都市がありそれが各地区の村とつながりその地区は郡や州にその郡や州は各地域に繋がっている。その役割は彼らの記録された人口移動のパターンで明らかにされた。前に話したように村の人口は定住したり固定したりしたものではなかった。人々は使用人や召使や結婚や使える土地を借り受けたりするような仕事を求めて移動していた。ある意味では彼らの人生で出生地からの距離を見ればそれがよくわかる。ある研究がWelsh国境のWorcestershireで行われ、一般的には彼らの出生地から10マイル以内で地域内を移動して住んで(2102)いたことが分かった。他にも同じような研究がある。中でもKent州で行われた結婚の地政学は好例で、対象者の半分はその人たちの教区で結婚し、70%の人はその教区から5マイル以内、84%の人は10マイル以内、95%の人は15マイル以内でそれぞれ彼らの生れたところで結婚していた。ある意味では人々の活動範囲はそのパートナーと結婚した範囲でもあった。

 

エリアの距離はその社会的交流の範囲に反映しその活動範囲は地域市場を形作り所在する町全体の形を形作り、その固有なアイデンティティとしての社会的エリアや固有の志向性を形成した。(2202)Connecticutに住んで分かったのは見えない壁がConnecticut全体に張り巡らされRed SoxのファンとYankeesのファンを分けていたことである。多分それは何か州とは別の人々の志向性、顔をボストンに向けるかニューヨークに向けるかの志向に関係しているのではないか。それが今私が話している好例ではないか。人々の結合の方法で、どこに買い物に行くか、どこに仕事に行くか、特定の志向が16世紀の英国の地域countriesを作ってきた。さて先へ急ごう。これらに加えてあるより長い距離の流れがある。主要商品が介在する複数の地域間の結合と相互依存のシステムがいくつか見られた。食糧がある。どのエリアでもそこの住民たちが食うに足りる十分なものがあるわけではない。良くあるのが南と東から西と東への穀類の流れである。(2307)

 

その多くは海岸沿いに例えば東Angliaからそれとは反対に動物製品の流れが北の田園地帯から北から南にその都会に向かって流れてきた。多くの牛や羊は北の市場町や西のWalesで大きな群れに集められ町の肉屋に売られる前に特にロンドンの周辺の牧畜業者に向けて運ばれていた。こういった流れがみられた。また原材料の流れもある。東AngliaやLincolnshireやで作られる羊毛は南東と西の羊毛産業へと流れていった。他にも同じような流れがある。ワインや香料や高級繊維などの贅沢品は長い距離をかけて運ばれていた。(2404)これらはBristolなどの港町を経由してロンドンにやってきてそこから田園地方まで普及していった。食糧や原材料や贅沢品など長い距離を運ばれたものはある意味で工業製品よりも重要性は少なかった。Sheffieldのナイフは国中のいたるところで見られた。ロンドンに行って川の側に立つと低い干満の流れがみられ川の側の泥の土手をふるいにかけているのがみられる。彼らは泥さらいとして知られている。彼らは素人の考古学者である。彼らがしているのは泥の中から昔のロンドンでポケットから落ちたものを探している。多分知っていると思うが、

 

16世紀のロンドンのタクシーは川に浮かぶ小さな船だった。(2509)船頭が客をあちこちに漕いで運び映画の中で「恋に落ちたシェークスピア」は好例であった。川の上で乗ろうとすると何かがポケットから落ちるので、それを彼らは泥の中から探している。泥さらいがShefieldのナイフを発見するのはもっとも一般的な風景である。人々は常にナイフを携行しそれが川に落ちて最後は博物館行きになる。長い流れがそこにある。どの町でも商品を長距離で流通させる役割を持っているが、あるものは特に重要な役割があり、個別地域での流通よりもことに重要性が高かった。中でも最大のものは地方の首都と呼ばれ、16世紀前半でその人口が5千から6千人を超えるところは、今から見ればごくわずかだが当時は極めて重要な地域で、(2611)その影響は国全体にわたった。例えば例としてYorkは実質的に北イングランドの首都だった。Yorkは古代からの町でかなりの重要性があった。北の伝道教会の中心だった。York大司教は素晴らしい聖堂を持ったYork大聖堂をベースにしていた。ここはまた北の王室の政府の中心であり、北の王の評議会が王の荘園のYorkに置かれていた。Yorkはまた王国の中の最大の郡として自然の交換拠点だった。郡や町の地図を見ればここにYorkshireがありその中でも圧倒的な郡だった。(2702)Yorkは圧倒的に全地域の交易ネットワークの中心だった。

 

ここでは北イングランドでのすべての専門家のサービスが受けられた。教会が新しいベルが必要になればYorkは鋳物のベルを得られる唯一の場所だった。時計を買おうと思えば多分Yorkに行かなければ買えなかった。そう多くの時計が作られていたわけではなく、それは全く専門的な職業でわずかな大都市でしか調達できなかった。もし美しい装丁の本が欲しければYorkに行けばよい。Yorkには製本業者のような人が大聖堂などに出入りしていた。この場所はOuse川に面していたという意味はここが長距離輸送の主要な幹線だったためである。Ouse川はHullの町から発し北Yorkshireの海岸へ注ぎ、(2803)その川沿いに多くの資材をHullで荷揚げしてこの地域に送りまた川を下って国内の市場や国際市場に運搬した。当時の大都会は同じような役割を担っていた。

 

Norwichは実際に東Angliaの首都で当時は第二の都会だった。Bristolは事実西Countryの首都であった。Chesterは北Walesの非常に重要なアイルランドへの交易を支配し、今もそれは続いている。Newcastleは北東地域の非常に重要なスコットランド国境の戦略的拠点だった。特定地域の人口の移動のパターンは人々が移動した地方社会地域を表し大都市への移民のパターンは(2906)その地域的な地域間的な重要性を告げていた。例えばNorwichは徒弟制の存続リストがあり彼らがどこからやってきたかも分かり、青年たちが商売を学ぶためにやってきたことが分かる。彼らは東Angliaの全地域からきていた。事実さらに遠くからも来ていた。NorwichはMidlandsから人を引き付けるだけの重要な町だったが他の町でも同じようなことが言えた。Bristolでも同じような研究が行われ徒弟たちは西Midlandsのあらゆる地域から来ていてその数は34の町や村からなりそのうち25の村や町はSevern川に面していた。こうして川を上って行った。これは極めて明白な事実だった。この場所は特に河川交易を通じBristolに接続し人々は(3004)川を下ってきてBristolで徒弟としてBristolで人生のスタートを切った。BristolはまたWalesや南西イングランドからも徒弟を集めていた。BristolやYorkやNorwichのような都市はすでに国家的重要性を持っていた。