Yale Open Course

英国近代史

Keith Wrightson

5. "Countries" and Nation: Social and Economic Networks and the Urban System

 

英国近代史(1)  地方コミュニティの独自性とネットワーク、点と点の合流の流れ、地方コミュニティと世界空間への結合、Countryの意味の多様性、水上輸送の発達とロンドンの成長

 

(訳注)英国近代史の第5回の講義はCountryという概念の多様性とNationの多様性をその地政学的社会経済ネットワークから説明しようとしている。Countryとは地方コミュニティの世界空間への結合を意味している。ネットワークとそこにある人とモノの流れを言っている。領域とか地方とか文化とかをその内容としている。英国では北部の高地ハイランドと南東の低地帯に分かれている。そこから混合農業が生まれ放牧や牧畜や畜産や酪農さらに耕作農業など様々な地政学的内容が生まれた。そこからそれぞれの産業のネットワークが生まれた。前産業革命時代と言えどもすでに鉱山事業や砕石事業、石炭採掘産業も生まれていた。それらが地方コミュニティの中で横断的な金属加工業の発達を伴い、さらに英国の高級毛織物という主要産業が全英国で幅広いネットワークを生み出した。このネットワーク中でも水上輸送による低コストの石炭燃料供給がなければロンドンの発展はなかった。

 

今日は16世紀英国の紹介をする文脈的講義の第4回の最終編です。我々は社会秩序を見て、家計を見て、地方コミュニティの機構と関係を見て、そして今やすべてを一緒にする結合のネットワーク、点の集合と合流を見ようとしています。そこで少し歴史的地政学として16世紀英国の道程案内としての歴史的観光旅行へご案内します。前回は地方のコミュニティは一定の地方に特別な地方特有性あるいは地方独自性を持っていることを強調しました。すなわちそれはある面ではその地方の習慣と機構から構築されたものである。ある意味ではより大きな世界とのつながりから別の方法で影響を受けたものである。この時期の無数の小さな村落コミュニティは一方では独自の権利をもつ実体的な場所の複雑性により、他方では(0109)またより大きな空間の社会的政治的に不可欠な一体性によって、その大きな空間の中で彼らを結び付けているのが今日の大きな関心のあるものである。

 

その大きな空間の中で最も重要なものは同時代の者が「countries」として呼んだものである。彼らが使ったその言葉は現代の意味の領地国ではなく特定のエリア、特定の領域、社会、ある面では地方の文化のことである。彼らが考えたcountriesはかなり地方特有化したもので、例えばScottish国境のTeviotdaleや少し下がってGloucestershireのVale of Berkeleyは別のcountriesと考えられていた。あるいはもう少し広い意味で使われていた。(0201)人々はNorth Countryについて話したりWest Countryについて話したり特定の境界ではないところの話をしていた。誰かが何か手紙や政治的演説の中で自分のcountryの意見に言及するときはこうした地方の地域を意味していた。このような国countryは従来歴史家は対照的な風景や形勢的な地勢やある程度の経済活動について話をしていた。手元資料の地図を参照に見ていただくと、農業上の英国は慣習的に一方では高地を表した北の高地と南東の低地帯に分けられていた。(0303)これが当時からそれ以後も知られた広い区分を意味した一つの認識の仕方である。

 

その一方で人々はほとんど低地帯だがfieldenと呼ぶ混合農業が行われたエリアと様々な放牧を中心とした牧歌的エリアとを分けていた。ハイランドには解放された牧草地があった。森林地帯の牧草地もあった。英国西部はまだ深い森に囲まれて東Angliaも同様で特有の酪農に焦点を当てていた。そして最後に東英国の冬にはそのほとんどが浸水した沼沢地で定住型の牧畜が行われていた。(0400)当時は非常に特別なエリアで、冬には洪水に見舞われ定住者は非常に独特の文化を持っていた。事実その断片は続いている。しばしば沼沢地から来た人は足に水かきをもっていると言われた。本当じゃないけど学生時代にルームメイトでここか来た人がいて、絶対に水かきなどないと言っていたが、水泳は上手かった。このような地政学的区分は多様性は少ないがScotlandやWalesにも拡張することができた。スコットランドの3分の2は高地帯である。海岸地帯の耕作農業の盛んなForthとClydeの間だけが低地帯である。Walesは中央Cambrian山地が特徴でこの時期Walesを北から南への旅行は海岸を廻る以外では非常に難しかった。(0501)ほとんどの主要な旅行ルートは山のために東から西へ向かっていた。ここも多様性は少なかった。

 

そのほかの区分としては様々な田園地帯の産業活動と一致していた。これは地政学上の問題ではないけれど彼らのロケーションが影響していたが、他の要素も影響を受けた。前産業革命時代のことを考えれば、あるエリアではすでに明らかに地政学的要素の影響を受けた特有の鉱山事業や砕石事業が行われていた。Derbysire丘陵では鉛が採掘されSomersetshireでは鉄がDeanの森とSussexで、石炭はRiver Tyneの周辺で特に生産され、他にもSouth Walesの田園地帯に散在していた。(0601)これらの産業はすで設立され金属加工が行われていた。多くの金属加工業が西MidlandのBirminghamの周辺の町で盛んになり、のちには産業革命のなかで軽工業の英国の最大の都市の一つになった。ここが初期の金属加工貿易の拠点となった。1523年ヘンリー8世がスコットランドを侵略したときBirminghamの鍛冶屋から大量の矢じりの注文を出した。彼らはそれを供給した。Shefieldもその金属加工では良く知られた場所だった。Shefieldのナイフは非常に有名で今でもある程度は残っている。ほとんどの人はShefieldの小刀を持ち歩き食べ物を切ったり木を削ったりして、そこからShefieldの小刀が生まれた。(0700)

 

中でももっと大規模な毛織物工業が生まれ、従来は前に説明したような外注システムで、原材料が資本家の生地屋から糸をつむぐために織物屋に外だしされ町の中央部に散在するそれぞれの作業場で布地に加工されていた。このような外注システムを組織化し織物産業として広範囲に拡大した。東Angliaの村のほとんどがこれに深く関係していた。Kent州のPartsをはじめWest Country の多くの村が北にも散在し当時の英国のもっとも有名な高級毛織物の生産物として国全体に広まった。すべてこれらが簡単な異なったエリアごとの類型学とその特徴である。(0804)地政学的にはこのすべての多様性を説明している。そしてまたこのすべてが地政学的エリアの帰属に関係しているだけでなくまた見えない要素にも関係している。結合のパターン、相互交流のパターン,エリアごとの質に特徴を与えた人と財の流れに関係している。例えば、私がここで説明して示そうとしているのは、Tynesideの中心の石炭産業は単純に石炭がそこで地上面に近いところで見つかり比較的単純な技術で手に入ったからだけではなかった。ここはまた航行可能な主要河川のTyne川に非常に近いところに位置していることと関係していた。石炭は図体がかさばり輸送することが難しくそこでkeelsという小型船に積み替えて川を下って石炭船まで運んだ(0903)そこからは簡単に海岸沿いに輸送でき中でもロンドンへ輸送した