英国近代史(5)  ギルドと同胞愛と仲間意識、婚姻関係と政治的同盟、コミュニティの拡大と親類関係の散在、親族関係と就職仲介と結婚仲介と相互介護、絆の基本としての相互責務、村社会の形成と人間関係とモラルの責務、潜在的葛藤と妥協とコミュニティの存在意義、コミュニティの二面性

 

(訳注)英国近代史のコミュニティ誕生の総括をしている。最後に登場したギルドは職業集団の同胞愛や仲間意識で構成されている。これらの要素は隣人関係や親類関係や血族関係に見られる友人・同朋意識と共通している。地方では血族関係をもとにした政治的同盟が近親結婚を通じて構成された。市のエリート職は大きく近親関係者によって占められているのは現代でも見られる現象である。親類関係はコミュニティの拡大とともに親族関係者が地域に散在する状況になった。彼らは就職を仲介し結婚を仲介しさらには介護まで相互に行っている。こういった絆はその基本に相互責務の認識があるという。家計から始まった絆は荘園やギルドや近隣関係や親類関係のネットワークになった。そこで形成されたコミュニティは村社会としての閉鎖性とその内部の人間関係と相互のモラル責任を生んだ。コミュニティの社会学的概念はこの内在的二律背反にある。しかしそれがコミュニティとして存在するためにはそこからの個人的妥協がすべてのコミュニティの存在意義であると言っている。こうして16世紀から17世紀への英国のコミュニティは集団や共同体に優先権を与えつつ家計や個人にも優先権を与える妥協的な仕組みとして近代への変化に対応していった。

 

 

 

最後にギルドによって強調された同胞愛や仲間意識隣人関係で育まれた友好は理想的には両者とも社会関係の中にkinship親類関係という慣用句の中に拡大していった。「友人」はしばしば個人的友人の意味で使われるが、16世紀には親族や身内の意味で使われた。(3800)その意味では今でもアイルランドの一部で使われている。友人は一般的には従弟や義理の兄弟の意味である。兄弟愛や同胞愛は明らかに血族関係への絆に匹敵するものが関係している。実際の生まれや結婚による血族関係に戻ると、これもまた地域社会で維持されてきた別の絆である。田舎の紳士階級の多くは近親結婚による特定の郡の中で一緒に繋がっている。緊密な社会的ネットワークがしばしば紳士階級の家族の間で表れ、近所に住むだけでなく婚姻関係を通じた政治的同盟としてその郡の政治の中に表れる

 

同じようなことが町の中にも存在し特に市のエリートの中に見受けられる。当時の英国中央部のCoventry市では1517年から1547年の間24人の男が保安官の職にあった。(3908)綿密な調査の結果結局その保安官職にいたうち6人が父親か息子か他の兄弟で、9人が結婚によってそれぞれの家族につながり、また別の4人は洗礼の時の仮親とつながっていた。彼らはお互いにお互いの子供の仮親になって、架空の親族の絆を作っていた。もっと一般的には課題書で読むように、ある程度人々はどんな部落であっても実際にお互いに限定的な関係を持っていた。人々は昔考えた以上にかなり転々としていた。ほとんどの田舎のコミュニティでは小さな人々の群れがお互いに関係しているが、大きな文脈での隣人は無関係な人々で(4003)さらにはかなり大きなエリアで親族の散在がみられた。にもかかわらずほとんどの村のコミュニティの場合はかなり濃密に相互に関係し、その緊密な親族は社会的エリアと呼ばれる特定の部落の周囲に散在し、間違いなく極めて強い相互援助の責務感を持っていた

 

より大きなエリアにわたって親族は積極的な反応を期待する広範囲の人の資源を持っていた。一人の息子が町の知覚で徒弟になりたいと望んだら、一つのベストな方法は少年を徒弟にしてくれる親方を見つける助けをしてくれる親族に働きかけることだった。親族はまた適切な結婚相手を見つけることなどもした。(4101)親族はつまりコミュニティの中に社会的エリアを一緒に作る絆の一つである。親族関係が機能するちっぽけな例を挙げると、1550年代にChristian Hattonという老女の記録がある。彼女の老年時代彼女は自分自身のケアができず、彼女は代わりにいくつかの集落の先でお互いに歩ける距離にいた親族に介護を受けていた。彼らは当時責任を分担し定期的に別の家計に2頭の牛を連れて行って数か月を過ごしていた。その牛はBrownyとFilpaleと呼ばれていた。Fillpaleは多分良いミルクを出す乳牛だったのだろう。こうしたChristian Hattonと2頭の牛への気配りは、彼女の死後(4204)彼女を助けていた親戚が牛のことで仲たがいをしてその人間のもろさからBrownyとFillapaleは歴史の1ページに入ってしまった

 

さて話をまとめると、中世後半と近世前半は「最も基本的なすべての絆は全てこの相互の責務だったと言われてきた。」確かにそれが私が話してきたことだが、その絆の現実を見てきた。私が調べてきた限りその機構と関係が家計を超えて人々のアイデンティティの基本的な調整を果たしてきた。彼らはそれらをアイデンティティの調整を果たすギルドや荘園や近隣関係や親族関係などの諸関係のネットワークの中に育んできた。(4304)これらのつながりはほとんどが地域的なものでその地域的雰囲気を醸し出し、その村社会と文化の特有の雰囲気の香りがあった。その場所特有の、場所特有の習慣、日常的に交流している顔見知り特有のもの、その共有した価値や適切な行動の横顔の香りがした。このような文脈の中で人々の日常的営みは緊密にその道や人的関係に縛り付けられてきた。匿名性は全くなかった。事実彼らは暗黙的にも明示的にも非常に強いモラルの特徴を持っていた

 

人々はその責務に合致するように期待されていた。(4401)彼らは思いやりを持つ喜びの中に生きてきた。そうしないと戒められた。いろいろな意味で非常に魅力的な理想的な特徴を持ち、ある意味でコミュニティの社会学的概念の横顔を見せたものだった。しかし同時に決して忘れてならないのは、それが非常に自分本位で制限的で内在的かつ排除的なもので、何か当然には受け止められないものを含んでいた。コミュニティが存在する限りは常に潜在的葛藤の脅威にさらされていた。そこに取り組まざるを得なかった。常に顔見知りの人々の間で妥協するのがコミュニティの存在の形だと言われてきた。そこが今皆さんに紹介している非常に重要な世界の側面である。

 

我々は決して感傷的であってはならない。ある面で魅力的ならばある面で非常に自分本位で制限的なものである。(4503)それは決して前代の牧歌的な世界ではない。多くの紛争があった。個人的な対立・抗争と権力の違いがあった。しかし同時にこれはその集団や共同体に優先権を与えるとともにそれぞれの家計にも優先権を与える世界だった。これらの個人間の責務は人々がいかに自分自身を管理しいかに16世紀から17世紀に表れる様々な変化する世界を認知し反応し理解するかに非常に強い影響を持った。次回はより都会と王国として全体が一体化したかに焦点を当ててお話をする。(4555)