英国近代史(3)  借地人のコミュニティと近隣関係、農業の協同組織化と分配の規則、共通の利益と満場一致、コミュニティの持続可能性と農業の持続可能性と家計の持続可能性、経済的次元と経済的構造

(訳注)前回の慣習が規範化した話の延長線上に、領主権と借地人の保有権の話からさらに借地人の近隣関係にまでこの「慣習」の規範化が進んでいることを説明している。もともと近隣の英語であるneighborは英語が語源で隣の居住を意味していた。イギリス以外にヨーロッパで近接的な居住はなかったからアングロサクソンが語源だと言われて納得した。当然この近隣関係は相互の援助義務もあるが一定の権利義務の争いは日常的にある。しかし荘園の自治組織では農業の協同組織化が進み農地の配列から分配までの規則が規範化されていた。その規則は原則は満場一致であるという。多数決の論理は一切ない。それは「慣習法」の世界は原則的に問題解決へのシステムへの確信と期待が高いからだという話である。問題の内容が共通して規範が自ずと出来上がっている確信である。それには家計から始まって農民でも商人でも荘園やギルドという組合組織が経済的次元で方向が一致しているからだ。「存続可能性」sustainabilityというキーワードがすべてである。これはもう一つの自治組織である教会教区でも全く同じで16世紀からの経済的繁栄に呼応してすでに宗教ギルドができ教会の再建築や美化などの投資活動をしていた。

 

さてここからは借地人コミュニティの別の側面に戻ってみよう。それは近隣のコミュニティである。慣習が田舎社会での一つのキーワードなら近隣関係neighborlinessは絶対的な別のキーワードである。善隣友好は非常に重要な社会的美徳として認識され、この言葉は常に行為の美徳の規範として使われた。(1900)これはもちろん居住地の近い者同士をもとにした話である。まさに「neighbor」という言葉はアングロサクソンの言葉「neah-gebur」から生まれその意味は「near-dweller」近くの住人であり、文字通り近所の住民である。近隣友好は居住に基づいて、お互いに近所に住む者同士が頻繁な交流を通して行動や伝達を行い一定の相互の義務の認識をするものである。ある面ではこれはその場所の自覚やその場所に付随するアイデンティティンの分別から育まれ機構や荘園の慣習によって作られた

 

例えば荘園の自治の手段である庭や空き地は特に荘園の中の農業組織の自治の手段だった。手元資料の裏面を見ていただくとLaxton の農地調査で描かれたものでその農場をよく見るときれいな細長い片ごとに分けられているのが分かるだろ。(2011)それぞれに番号が振られている。借地人はそれぞれバラバラに農地を保有している。この番号は調査人がどの農地をどの借地人が持っているかで調査簿に番号を振ったものである。農場の端に共有地のエリアがありそこではすべての借地人が彼らの家畜を放牧することができた。調査人は様々な羊がそこで放牧されている様子を描いている。この地図はことにきれいな地図で16世紀前半から17世紀前半のLaxtonの地図である。こういった配列、農地を農場全体に点々と散在させるのは共通の放牧を必然的に分配する上でそれが上手な農業の協同組織であることを意味した。そして荘園の空き地はその人々に協同的農業のルールが働く規則が上手く機能する機会を与えた。(2118)

 

規則はある当時の法律書に「共通の利益とすべての者の同意を伴う」ものとして描かれた。理想的には彼ら全員の満場一致であるべきもので、協同農業だけでなく争議の仲裁や必要なら反抗者への処罰にも適用すべきものだった。その目的はある荘園の判例によれば、引用すると「お互いの耕作や労働や種まきや羊の毛刈りや放牧やそれにかかわるすべては友好な繫栄の近隣の中で近隣友好が保たれるためにはすべての意見が一致することである」(2202)これが理想である。勿論単純に幸せな世界の農民の協同はない。どの荘園にもほとんどの土地を保有し優先支配するような大きな借地人がいた。有り余る議論や諍いがあったが、常態的なストレスはその置かれた近隣関係の価値で、この理想に対して彼らが起こした常態的訴えは確かにこれらの議論が部分的にせよ解決されるという確信があった。当時のある歴史家はコミュニティはある意味で同じ議論の属していて、その機構は問題解決に役立っていたと描いている。

 

究極的には人々は全体としてコミュニティの農業の持続可能性を確信する利害関係とその構成要素である家計の存続を図る慣習によって支配されたシステムへの意見の一致をみる非常に強い期待があった。(2303)それほどまでに近隣関係は直接的な経済的次元に関係したものだった。しかしそれに加えて近隣関係は単に共同社会の農業に従事していただけでなく、事実国のあるエリアでは共同農業はそれほど重要性がないところもあった。すでに16世紀にはある郡はLaxtonのような大規模な公開農地ではなかったが、すでに今日の英国の情景のように農地が分割されたところもあった。壁や堀で囲まれて、それぞれの農家が一定の数の農地を保有したり借地人として一定の数の農地を保有し、それらを自分の希望での農作業をしていた。この種の農業、囲い込み農業はすでに北英国の一部のKent州や東英国の一部のSuffolk郡とEssex郡で昔から盛んに行われていた。(2409)そこから国全体を通して今見てきた規範となっていった。

 

経済構造としての荘園と近隣関係はここでは重要性が少なかったが、どこにあっても近隣関係は別の形で表現された。ある形では非常に重要な形だが教区という形をとった。英国は領主権や荘園の単位で分けられただけでなく、また約1万もの教会の教区に分けられ、それがさらに人々の教区の教会での集団的信仰を通して付加的なアイデンティティの単位となった。ある隣人への責務はその中心的要素としてのキリスト教の教えである。そこには普遍的なあるモラルの責務が含まれている。子供たちは教義を教えられた時から「誰が私の隣人か」と尋ねられた。(2507)あらゆるものが隣人である。側に住んでいる人だけではなく、それが普遍的なモラルの責務である。そしてまた十戒の第二編の4章から10章で隣人への責務が教えられ、第二の食卓は第一の食卓と同じように隣人への責務であり第一の食卓のわずかなものが神への責務である。教会では人は人の隣人を自分自身のように愛せよと教えられ、もちろんそれは非常に難しいことであるが、そうしようと試みる責務は様々な形で補強することになる。

 

大衆の儀式で平和へのキスは儀式の一部で隣人への施しを象徴的に表現しているものである。隣人への施しが教会の奉仕から除外され特に彼らが和解しするまでは聖餐式から除外されていることがキリスト教から出たことを知っている人は、(2611)隣人への施しが再び行われると信仰仲間への加入が認められる。教区はまた隣人への同感を別の方法で励ましている。15世紀と16世紀前半教区自治主義と呼ばれるものの目覚ましい繁栄がみられた。活動の全体世界は教会に集中された。そこでは多くの教会の再建築や美化が行われ、今日残っている最も美しい教区教会のいくつかはこの時期に再建築されたものである。この時期には教区民の相対的繫栄が教区教会への投資を促進した。この時期は多くの教区の宗教ギルドが設立された。これらは教区民の団体が時にはコミュニティ全体から時には特定の部門から生まれた。女性部や青年部や特定の荘園から生まれた。彼らは教会の祭壇を維持したり燭台を維持したり聖職任命権者になったりしていた。(2720)