英国近代史(2)  コミュニティの仮想空間、領主の権威と借地人の土地所有、荘園の登場と領主権、自由農地の誕生と貸農地、荘園の慣習と慣習法(ルール)、放牧権の共有、人間の心を失った時間とルール、慣習法とコミュニティの財産、公平性と正当性と合理性、

 

(訳注)前回はコミュニティの仮想性の話をしていた。それが近代英国で現実性を帯びたのは無数の小部落の集合であった英国の荘園の領主権と借地人の保有権の存在だった。この権威と権利の利害調整を果たしたのが「慣習」だった。英米法が「慣習法」と呼ばれる起源がここにあった。慣習をルール化して積み重ねることで環境への期待と現存の慣習の合理性、正当性、公平性を判断した。コミュニティが利害の源泉ならこの慣習法はコミュニティの財産でありその実態になった。慣習とともに重要なキーワードは期間・時間だった。そこには「人間の心を失った時間」というキーワードもまた重要なものになった。環境は時間とともに変化する従って慣習のルールもその時間に沿って順応しなければならない。こうして領主の荘園の土地所有権は登記簿上の借地権となって地代、敷金、更新料など現代のリースへとつながっていった。当時すでに英国では農奴制度が消滅し自由農地が売買されるなど現代の商取引への布石が一歩一歩進んでいた。

 

 

16世紀の英国を想像してみればそれは無数の小部落の集合でそのほとんどは人口500人以下で多種多様な情景の中に散在していた。(0901)16世紀前半その情景は地図さえにもなっていなかった。最初の郡単位の地図は英国を地図化し概観しようとして出版したのは1576年Christopher Saxtonだった。これは重要な出版で印刷機からまだ濡れているうちに引き出したのはエリザベス1世の総理大臣だったBurghley卿だった。彼は最初に国の正確な地図を持つことに政治的可能性を見て取った。しかし16世紀前半にはまだ存在していなかった。にもかかわらずその情景は地図化され構築されたのは別の意味で領主権の現実、借地人への土地の所有と権威の保持は一体のものだった。(1001)

 

中世後半の16世紀前半の社会機構は領主権を通して土地の上に銘記され領主権単位の特徴は領主の権威の下に荘園と呼ばれていた。ある領主はただ一つの荘園を所有しド田舎の小さな紳士階級だった。何人かは多くの荘園を持ち一つの例としてBerkeley卿はGloucestershire郡の大半を所有し同時代の者に「国の農地を囲い込んでいる」と言われた。いかなる場合でも彼らの土地所有が少ないか大きいかどうかは別にして荘園の領主権の事実は地方社会の基本的構図だった。土地を耕作する人は通常は荘園領地の借地人であり領主への借用関係で決められ、あらゆる意味でその相互の関係が律せられた。(1107)これらの借地関係は様々な形があったが一般的な形はあった。この用語は少しあいまいなので手元資料にその定義を書いておいた。土地所有と所有権に関して16世紀には今必要としているものよりもっと多くの定義があったはずである。

 

基本的にはそれぞれの荘園は分けられていた邸宅私有地と借地に分けられていた。手元資料にはその地図が載せてある。NottinghamshireのLaxton荘園である。英国のほぼ中央部にあたる。邸宅私有地の上部に村がありその周囲を荘園の借地人が保有する農地が取り囲んでいる。(1200)中世には荘園の私有地は自由な借地権を持たないで労働の対価として農地を保有していた農奴の労働で耕作されてきた。1500年代までに農奴制度は英国のほとんどでは消滅していた。14世紀の後半から始まって15世紀までは東Anglia地方にはある程度は残っていたがそれも消滅した。1500年代までには私有地は領主によって自作農たちに大きな単位で貸し出された。貸農地は自由農地として、多分全体の5分の1は貸し出されていた。自由農地の所有者は彼の意のままに自由に土地を売っていたが彼は荘園の領主の確認を義務としていた。(1300)彼は年間賃借料のわずかな額をその領主権の承認対価として支払わねばならなかった。

 

ほとんどの賃貸農地は、彼ら自身が慣習法上の保有を意味する保有として記述されていた。すなわち土地は彼らに「荘園の慣習による」として年2,3回を条件として荘園の空き地として容認されていた。この「荘園の慣習に従って」というフレーズはしばしば登場する。荘園の慣習というのがこの用語の基本になっている。この習慣的な借り主は従来は「謄本保有者」copyholderと言われてきた。彼らはその土地を荘園の空き地の登記の占有の写しとして保有している。すなわち登記簿上与えられている。時には権利証まで戻ると古い時代の15世紀や16世紀の権利証まで戻らなければならない。小さな羊皮紙の一片に書かれた謄本所有者のための登記所のオリジナルの土地の容認書まで戻らねばならない。(1404)謄本所有者は課金と呼ばれる頭金を払わねばならなかった。と同時に年間の賃借料も払わねばならなかった。彼らは現代のリースと同じように数年単位でまたは一生、土地を保有できた。これらが慣習的に形成され土地をその人が一生保有しまた妻や長男まで保有できた。

 

ここで土地を保有する上で使われた用語が荘園の慣習として定着した。これらが幸運にもまた時には恣意的に変更されてきて今に至っている。領主権と領主と借地人の関係が田舎コミュニティの関係を明らかにしている。これが権利と義務の地方の図を作り上げた。この特定のパターンは従来から特定の地方の領主の権力と借地人が彼から獲得し妥協した権利との関係を表し、その用語が地方の慣習として大事なものと記されてきている。(1508)この慣習という現実、慣習という概念を踏まえて、驚くには値しないが別の期間というキーワードが、非常に重要な概念になった。慣習という用語は常にルールの積み重ねの上にある。特定の場所で何が正しく適切と考えられるかについて、そして正当な手続きとその維持とその強制についてルールの積み重ねがある。慣習はすでに言ったように領主の権利の尊重と借地人の土地の権利の上に立っている。そしてまた同時に荘園の土地の共通の放牧への使用のルールの上に立っている。それはまた部落の争いが荘園の借地人や借地人と領主の間に起きたならルールによることを意味する。(1603)

 

これは時間をかけてゆっくりと育まれた住み慣れた環境への期待を意味する。一般的に人々は何か現存する慣習へ議論が持ち上がったら「人間の心を失った時間」と議論しがちである。これもまたしばしば使われる別のフレーズである。慣習はその地域性をそのルール「人間の心を失った時間」として統治してきた。何か争が起きたら彼らは普通彼らが60年70年の人生で知ったことを最も古い借地人を雇って、慣習を確認するために何を父や祖父から聞いたかを表明させた。実際に慣習は変化するもので、もしすべての借地人が同意したら時間をかけて段階的に修正されるもので環境の変化に伴って順応性のあるものである。(1702)にもかかわらず、この古代の雰囲気やオーラを伝えるものである。

 

いかなる時点でも特定の場所で有効な慣習は借地人と借地人と領主の間の一種の調整の成果である。この線上に慣習は必然的に借地人のコミュニティの財産として見られる。これは彼らの間にある利害のコミュニティが前提となり、そこから彼らの相互の関係と領主との関係を判断する領域ごとに用意された期待のパターンが生まれた。彼らの領主との関係は慣習に即して公平なものか正当なものか。ここでよく使われる言葉が「合理的reasonable」である。それは合理的なものか。それは慣習を維持するか、それとも抑圧的な搾取的なものか。そのすべての結果として経済的ストレスがあった時代には、この言葉は後で16世紀後半に現れたものだが、慣習はしばしば領主と借地人の利害関係が競合する分野で慣習は何かどうあるべきかが問われた。(1814)これはこの時期16世紀後半から17世紀にかけて起きた農民の反乱や一般的な抗議を見るときにしばしば起きた。それはしばしば慣習を廻って解決された。